48.心がつながるのが怖い――愛と自己防衛

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『心がつながるのが怖い――愛と自己防衛』イルセ・サン作、枇谷 玲子訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン発行、2017年9月14日発売

友だちになれない言い訳を探す

いつからだろう。出会う人と友だちになれない理由ばかり探すようになったのは。

●「あの人はあくまで仕事仲間。友だちとは違う」

●「年齢が離れているから、仲良くなれないや」

●「育った環境が違うから、どうせ分かり合えっこない」

●「ママ友は子どもを介した関係で、ただの知り合いだもの」

友だちになろうよ、って言えたらいいのに

最近デンマークのセラピー本『心がつながるのが怖い――愛と自己防衛』を訳した。作者は『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』イルセ・サン。多くのブロガーさんたちがサイトに感想を描いてくださったり、声優の細谷佳正さんがラジオ番組天才軍師で本のことを語ってくださったりと、大きな反響を呼んだ。訳者として、この場を借りてお礼を申し上げたい。

【書影】鈍感な世界に生きる敏感な人たち_2017年新オビ (2)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ実は、ロシア人のデンマーク語翻訳者から、「イルセ・サンの『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』も素晴らしい作品だけど、私は『心がつながるのが怖い――愛と自己防衛』の方がすごい作品だと思う。とってもいい作品だからぜひ読んでみて」と教えてもらっていた。

初めはその言葉をにわかには信じられなかった。『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』が本当に優れた作品だったから。でも読んでみて、彼女の言葉の意味が分かった。

読みながら気づくと私は、わんわん泣いていた。自分の心にぽっかりと穴が空いていることに気付かされたのだ。

そうだ、私はいつも、

●私なんか誰にも愛されていないと感じたり、

自分には価値がないと感じたり、

●facebookやtwitterで友だちと近況を伝え合ってはいても、誰とも真につながれていないような寂しさを覚えたり

してきたのだった。

どうしたら良好で緊密な人間関係を築けるのだろう?

本には、

●私たちがどのようにして自分自身を守り、愛にストップをかける自己防衛の戦略をとるようになるのか

●それらの戦略が良好で親密な人間関係を築く妨げになるのは、どんな時か

●どのようにしたら不適切な戦略から脱却できるか

●どうやって自分自身の心に寄り添いながら、他者と近しい関係を築くことができるのか

が、作者のイルセ・サンが実際に行ってきたセラピーでのクライアントの事例を交えながら、書かれていた。

も本当は誰かとつながりたい友だちになろうよって、手を差し出したい。でも拒絶されるのが怖い

自己防衛の戦略

https://www.youtube.com/watch?v=2NK8LMMbUDc

作者がこの本で言及している自己防衛の戦略とは、他者または自身の内面、外界の現実に近づかないよう、私たちが意識的、もしくはしばしば無意識的にとる行動全般、また鈍感になろうとしたり、他者や自身の内面と距離をとったりする戦略を指している。フロイトやキルケゴール達もこの人間の心の動きを認識していた。

幼少期に自分を守るため必要だった戦略を大人になっても取り続ける

自己防衛の戦略は幼少期の早い段階でとられるようになることがほとんどだ。子どもは自分を守るため、愛されていないとはっきり認識するのを避ける。小さな子どもは自身の親が親としての能力に欠けていると認識することで、命が脅かされる恐怖を覚える。その恐怖から逃れるため、愛情に満ちた強い理想の両親像を心の内に創り上げてしまう子もいる。作者のイルセ・サンは、強すぎる感情と距離を置くのは、時に適切である、と述べている。

しかしこの戦略が習慣化し、大人になってからも、必要以上に自己防衛の戦略をとり続け、自己の内面と距離を置きすぎることで、他人に心を開き、愛情に満ちた関係を築くチャンスをも逃してしまう。また他人に心を開けないのは、自分の性格なんだ、自分は劣った人間なんだと考え、自分を責めてしまう。

親に叩かれて育った人は、他人から物のように扱われるのを許してしまいがち

イルセ・サンは愛する親に叩かれて育った子は、自分は価値のない人間なんだと感じ、叩かれた苦しみを忘れるため、現実とは違う理想化した両親像を思い描くことで自分を守ろうとする、と述べている。さらに子どもの時、物のように扱われた人は、大人になっても、他人からそのような扱いを受けるのを許してしまいがちだと言う。そして逆に自分自身もパートナーを物や道具のように扱ってしまうこともある。

心の傷がえぐられる

この本を読むことで私は心の奥にしまい、鍵をかけていた心の傷が再びえぐり出されるような感覚を覚えた。それはとても苦しく、辛い体験だった。1冊の本にこんなに感情を揺り動かされるなんて、不思議だ。実際、作者のセラピーを受けた人の中にも私のように泣きだし、感情を露わにする人がいたそうだ。

苛立ったり怒ったりしてばかりいる人の心には、悲しみや痛みが隠れている

すぐに苛立ったり、怒ってばかりいる人は、その胸に悲しみや痛みを抱えており、それらの感情を自覚するのを避けるため、苛立ったり、怒ったりしているのだ、とイルセ・サンは述べている。

他人を妬んだり、嫌ったりしてしまうのは愛情に飢えているから

他人を妬んだり、嫌ったりしてしまう人は、愛情に飢えている場合が多い。イルセ・サンは作品の中で読者に、そのような自己防衛の戦略をとってしまっていることを認識し、自身の悲しみや痛みを受け止め、感じることで、心が解き放たれ、愛情に満ちた人間関係を築くことができると優しくも力強く説いている。

いつも笑顔でいなくていい

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作者は正しくあらねばという強迫観念が強すぎると、常に笑っていなくてはならなくなる、と指摘した上で、表の顔を持つのは悪いことではない、と述べる。

問題は、その仮面をはずすタイミングが分からなくなったり、ごく近しい人の前でも仮面をとれなくなったりすることだ。

作者はいい人の仮面をはずし、相手と視線を合わせ、落ち着いて話すことで、心のつながりを感じられるようになる、と言う。私は私なんだ、と思うことで、相手にありのままの自分をさらせるようになる、と。

ありのままの自分でいる

自分らしくいようと選択するのは、自己の内面をありのままに受け入れこと。また人生には自分の力ではどうにもならないことがある、と認めることでもある。相手にありのままの自分を知ってもらい、受け止められることで、愛されていると感じることができるのだ、と作者は言う。

自分らしくいようと決めることで、心を開き、相手を受け入れ、他者に注意を向けことができるようになる。そうすることで愛情に満ちた人間関係が築けるようになるのだと、この本には書かれていた。

そばにおいでよ

私は誰かから差し出された手を、これまで何度、つかみそこねてきたのだろう? この本のデンマーク語のタイトルは”Kom nærmere”(もっとそばにおいでよ)。

そばにおいでよ」私も誰かにそう言えたらいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

50.『おおきく考えようー人生に役立つ哲学入門ー』

『おおきく考えようー人生に役立つ哲学入門ー』ペーテル・エクベリ作、イェンス・アールボム絵、晶文社 、2017年10月

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出版社HP http://www.shobunsha.co.jp/?p=4436

書店様向け注文書 http://www.shobunsha.co.jp/wp/wp-content/uploads/e9063d0bd4feee4ab7272373c37787b5.pdf

埼玉の書店をめぐる1 リブロららぽーと富士見店ーースウェーデンの哲学入門『おおきく考えよう』営業日記
埼玉の書店をめぐる2 ソヨカふじみ野Books Tokyodo(東京堂書店)
埼玉の書店をめぐる3 朝霞Chienowa Book Store

(訳者あとがき)

1.前作『自分で考えよう』について

本書『おおきく考えよう――人生に役立つ哲学入門』(原題:TÄNK STORT: EN BOK OM FILOSOFI FÖR UNGATÄNKARE )は、2016年10月に邦訳が出版され好評を博した『自分で考えよう―― 世界を知るための哲学入門』(晶文社)の続編ですが、前作を読んでいない人でも楽しめる内容になっています。

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前作がスウェーデンで発表されたのは2009年、作者ペーテル・エクベリのデビュー作にして、スウェーデン作家協会のスラングベッラン新人賞にノミネートされ、ドイツ語、韓国語、デンマーク語、ロシア語、ポーランド語などに翻訳されました。

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↑作者のブログより http://peterekberg.blogspot.jp/ 

2.作者経歴

作者はそれから、ロボットや宇宙についての知識読みものや絵本、SFシリーズなどを発表し、本作『おおきく考えよう』(2015年)で、優れた児童ノンフィクション作品に与えられるカール・フォン・リンネ賞にノミネートされました。その後も立てつづけに作品を発表し、児童書作家としてのキャリアを着実に積んでいます。

3.本作の主なテーマ

本作は、冒頭で「これは人生についての本なんだ !」と述べられているように、人生をどう生きるかが主なテーマになっています。具体的には、

●人生でいちばん大切なことはなにか、

人生の意味とはなにか、

●自分がこの世界に存在するとはどういうことなのか、

●自分はいったいなに者なのか、

●なにを選択したかによって自分がどう変わるか、

男らしさ、女らしさとはなんなのか、

参考:亜紀書房『バッド・フェミニスト』

Feminism For Everybody『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』読書会、個人的感想

勇敢、親切、正直であるとはどういうことなのか、

●できるだけ多くの人にとって、よい社会をつくるにはどうしたらいいのか、

などが書かれています。

4.アクティブ・ラーニング

前作でも本作でも、日本でいまアクティブ・ラーニングと言われ注目されている主体的で対話的な学びが自然な形で実践されています。現在の教育現場では、

●子どもたちが課題の発見をし、答えはかならずしも1つではないということに気づくまで先生が導けても、授業の目的、最終的になにを学ぶかが絞りこめず、深い学びにまで行き着けない、

●生徒が主体的に自由に出した答えを、どう評価したらいいか判断に迷う、

といった声が挙がっていると耳にします。

参考:先生のための夏休み経済教室個人的感想

 

そこで先生に求められるのは、

子どもたちの主体性を促しながらも、彼らが議論のなかで公正、理性的、倫理的にものごとの善悪を判断できているか、また理由づけがしっかりできているかを見極めたうえで、示唆に富んだ問いかけをし、深い学び、分析、問題解決へと導く力です。

そのためにまずは先生自身が、

公正とは、理性とは、倫理とは、善悪とは

なにかを改めて考え、再定義する

必要があるのではないでしょうか。

   
アクティブ・ラーニングの本場、スウェーデンで書かれた本作では、それらの言葉についてとことん突きつめた考察がされています。本作の、とくに黄色地のアクセントがついた問いは、子どもたちの主体的思考を促すために、どんな声がけをしたらいいかのヒントになることでしょう。

5.さらに知りたい方達へその他の推薦図書

北欧の教育のあり方、教育者が具体的にどう子どもに声がけをし主体的な思考を促しているのか、もっと知りたい人は、『新しく先生になる人へ――ノルウェーの教師からのメッセージ』(アストリ・ハウクランド・アンドレセン、マーリット・ラーシェン、バーブロ・ヘルゲセン著、中田麗子訳、新評論)、『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む:日本の大学生は何を感じたのか』(ヨーラン・スバネリッド著、鈴木賢志、明治大学国際日本学部鈴木ゼミ訳、新評論)、『あなた自身の社会 ―― スウェーデンの中学教科書』(アーネ・リンドクウィスト、ヤン・ウェステル著、川上邦夫訳、新評論)をご参照ください。

  

また『ルビィのぼうけん こんにちは! プログラミング』(リンダ・リウカス作、鳥井雪訳、翔泳社)にはじまるフィンランドのプログラミング教育についての絵本シリーズも、参考になります。日本ですでにこの絵本の著者を招いたセミナーやワークショップが開かれたことがあるようです。

  

アクティブ・ラーニングで主体的な考え方ができるようになった子どもたちが将来それを生かすには、トップダウン型ではなく水平方向での議論民主的対話ができる社会をつくっていかなくてはなりません。『スウェーデン式ダイバーシティで日本が変わる』(ダーグ・クリングステット著、文化堂印刷)にはスウェーデンの新聞社が「権威や上下関係は自由な言論の妨げになるので廃止しよう」と呼びかけたことなど、日本の企業、組織にとってもヒントとなりそうなアイディアがつまっていますので、ぜひ読んでみてください。

またグローバル化社会で生き抜くため、民主主義の徹底された社会の実現も求められています。北欧の民主主義については『10歳からの民主主義レッスン』(サッサ・ブーレグレーン絵と文、にもんじ まさあき訳、明石書店)という素晴らしい本が出されています。

6.悩んだ時哲学書を読む

前作『自分で考えよう』では、

●これまでの歴史でどんな哲学の問いが立てられてきたのか、

●哲学的にものごとを考え、道徳的判断を下す際に用いられる理性

議論について、

公正や善とはなにか、

●ものごとを思い浮かべるとき、頭のなかでなにが起きているのか

など、哲学のおおきな枠組み、基本的な考え方が示されていました。そのため読者の皆さんが人生で壁にぶつかったり悩んだりしたとき、それぞれのケースと照らし合わせ、自分なりの答えを探す助けとなったのではないでしょうか。

訳者である私自身も「 Yahoo! 知恵袋」などの悩み相談サイトを見て悶々とする代わりに、前作のページをめくることで、

●いま自分が抱えている悩みは昔の人たちや哲学者もぶつかってきたものなんだ、

●それらは哲学の世界ではよくある問いで、疑問に思うのは自分だけじゃない

●ものごとを深く突きつめて考えるのは悪いことじゃないんだ、

と気づかされ、何度も励まされてきました。
一方、本作『おおきく考えよう』

人生の意味とはなにか、

幸せとはなにか、

●人間としてどうあるべきか

など、生きる道を模索する若い人たちのヒントとなる実用的な内容となっています。

7.悩める若者へのメッセージ:「考えるのはきみだ。だって、きみの人生なんだから」

私もとくに高校生のとき、自分はこれからどんな人生を生きていったらいいのか人生の意味とはなんなのか思い悩んでいました。

受験戦争を勝ちぬき、いい会社に入って、やがては結婚し、子どもをもうけ、子育てをするのが正しい生き方で、レールから外れるのは許されないような気がして、窮屈で怖いと感じていました。

作者は本作で、人間とは本来自由な選択肢を持つ生きものだと述べていますが、その頃の私にはそうは実感できなかったのです。

あの頃の自分のそばに、

自分の手で、意味のある人生をつくるんだ!」

きみがなにを言い、なにをすべきか、だれにも決める権利はない」

考えるのはきみだ。だって、きみの人生なんだから」

と言ってくれる作者のような人がいたら、もしくはそういう人がどこかにいるかもしれないと気づけていたら、ど
んなに心強かっただろうと思わずにはいられません。

枇谷玲子

 

 

『性表現規制の文化史』&第1回メディアと表現について考えるシンポジウム 「これってなんで炎上したの?」「このネタ、笑っていいの?」個人的感想

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2017年5月に第1回メディアと表現について考えるシンポジウム 「これってなんで炎上したの?」「このネタ、笑っていいの?」を聴きに行ってからずっともやもやしていたことがある。
シンポジウム自体は素晴らしいものだったが、自分が表現規制支持派なのかどうか、シンポジウムを聴きに行って、ますます分からなくなってしまったのだ。

シンポジウムに関するブログなど……http://media-journalism.org/blog/field-review/355-mediaexpression http://d.hatena.ne.jp/beniuo/20170525/1495712188 https://www.facebook.com/Media.Expression.Symposium/?fref=ts http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/22/media-expression-symposium_n_16749504.html http://www.huffingtonpost.jp/yumi-sera/flaming-yumi-sera_b_16740312.html

ちなみにシンポジウムは女性蔑視、差別を助長するCMの炎上についてがテーマで、性表現規制は、その中の1トピックとしてのみ扱われていたのに対し、『性表現規制の文化史』では全編に渡り性表現規制について論じられていた。

私は北欧の児童書、特にヤングアダルト(YA)の翻訳をしている者だ。私が北欧の児童書、特にYAに興味を持ったのは、北欧の児童書、YAにタブーがほとんどないからだった。北欧の児童書では、政治、性、お金、権力、社会の不平等、差別、戦争、暴力、離婚などについても、手加減なしにオープンに描かれている。しかし北欧は人権保護に熱心な国でもある。これらの国が表現の自由と人権配慮という一見矛盾しそうな2つのバランスをどのように保っているのかに私は強い関心を持っている。 表現の自由と人権への配慮の問題が最も顕著に現れた出来事に、ユランスポステンというデンマークの新聞紙によるムハンマドの風刺画掲載騒動がある。会見を求められたラスムセン首相が「政府はメディアを規制していない。干渉することは表現の自由を危うくする」として会見に応じなかったことや、同紙による「宗教をことさら嘲ちょう笑すべきではないが,民主主義,表現の自由のもとでは,からかいやあざけりなどを受容することが必要だ。しかし一部のイスラム教徒は,近代社会,世俗社会(のこうした考え)を受け入れず,特別扱いを求めている。このため,われわれはイスラムについて自主規制という危険で際限のない坂をのぼることになった。そこで今回,デンマークの風刺画作家組合のメンバーに,彼らが考えるムハンマドを描いてくれるように依頼した…」「旧ソビエトでの特派員の経験から,私は侮辱という理由を使って検閲が行われることに,敏感になっている。これは全体主義がよく使う手で,サハロフやパステルナークなど人権運動家や作家の身の上にも起こったことである…」という意思表明になぜだか私は同意できず、その時もすごくもやもやしたのだった。私にはデンマークの社会になじもうと頑張っているイスラム教徒の友人がいて、彼女がただムスリムということだけでデンマーク人から理不尽に虐げられたり、批判されているのを見ていたから、イスラムの人達の尊厳を傷つけてまでなぜそんな風刺画を描かなくてはならないのかどうしても理解できなかったのだ。

シンポジウムで取り上げられたような、女性蔑視、ジェンダーの固定化と思われる表現についての批判、炎上について、最近日本のメディアでも取り上げられることが増えている。

シンポジウムでは、昔はもっと自由にできたと感じている制作者側と、不快な表現に批判的な声を上げるようになった受け手の間で、分断が起きていると指摘があったが、実際、表現者側と受け手、また規制を検討する側という立場、意見の異なる人同士が直接意見をぶつけ合う場はあるのだろうか? シンポジウムは表現を問題視する立場の人が多かったように思えた。またとても気になったのが、シンポジウムではお笑い芸人さんなど、決定権があまりない、比較的、力の弱い人ばかりをやり玉に上げられ、政府やテレビ局、大企業などもっと強い権力を持つ人への批判が控え目だったことだ。

参考:マスコミの自主規制について

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『性表現規制の文化史』では、『家族・性・結婚の社会史』(イギリスの歴史学者ローレンス・ストーン)や『処女の文化史』(アンケ・ベルナウ)などを参考に、性規範、卑猥の意味がどのように西洋社会で規定されてきたのか、『日本人は性をどう考えてきたか』(市川茂孝)などを参考に、日本における性表現規制の歴史の概略が書かれていた。

19世紀、特にアメリカで事実報道より扇情的なことを売りにすることで新聞の部数を伸ばしたイエロー・ジャーナリズムが、男性の性的攻撃性を煽るものとして非難の対象になったことなども書かれていた。 またポルノを激しく批判したのが、婦人参政権運動を行ったキリスト教の婦人団体であったこと、男性の性的堕落を批判することで、女性の優位を協調しようとしたとも。このような団体は売春やポルノを男性による女性の性的搾取、女性の尊厳を冒涜するもの、ソドミーやオナニーを煽り、強姦等の性的犯罪へと若者を誘導する入口となると見なした。

さらに1960年代のアメリカで、女性が性的に従属的な立場を求めているような性表現が問題視され、それまでのような宗教的な理由からではなく政権力の問題から性表現規制を求める運動が活発化した。

また1980年代に一部のフェミニストにより、ポルノの存在そのものを性差別として運動を行い、いくつかの地方議会で性差別という観点からポルノを規制する条例が検討、採決されたともあった。それに対し、全米書店協会、アメリカ自由人権協会が憲法違反として執行差し止めを求める連邦訴訟を起こした。

ただフェミニストの中でも立場は様々で、性表現規制条例は性の抑圧を招くだけで、女性の解放と性差別是正にはつながらないとする人達もいたようだ。 1982年のファーバー事件の裁判の判決で青少年を性的な対象とする表現だけでなく、青少年が性的な表現に触れることまで青少年に害になるとされたものの、青少年が成熟した大人と比べて性表現から害を受けやすいという証拠は提示されなかった。

著者は日本で性表現の拡大により、性犯罪の増加や若者の道徳的頽廃が進んだという証拠はなく、むしろ性犯罪は減少傾向にあり、若者は実際の性行為から離れている、これらと因果関係が立証されていないのに、性表現を規制することへ疑問を呈していた(上は私が個人的に印象的だと思った箇所で作者の論を全て網羅したものではない。詳しくは書籍全編を参照)。

この本を メディアと表現について考えるシンポジウムで素晴らしいプレゼンをされた田中東子さんの『メディア文化とジェンダーの政治学―第三波フェミニズムの視点から』と併せて読んでみて思ったのが、日本でメディアにおいて女性がどう描かれているのかについての研究が余り進んでいなくて(『日本人は性をどう考えてきたか』(市川茂孝)という作品はあるようですが)、この分野はこれからの学問であり、白田さんや田中さんは日本においてパイオニア的存在なのではないかということでした。

medeliabunka 主に西洋での議論、法について書かれたお2方の本は大変参考になったが、アニメ、漫画という特殊なカルチャーを持つ日本ではどうなのかが書かれた本や研究も今後追っていきたい。

結局科学的な論拠、エビデンスがないと、異なる意見の人を納得させるのは難しいのかもしれないと感じた。異なる意見の人同士が議論する様子もぜひ観てみたい。 また北欧でどのような議論が行われてきたのかについても引き続き勉強していきたい。 https://www.livetblantdyrene.no/media   marte

(性、暴力の描き方ーー『僕たちがやりました』とスウェーデン映画『ミレニアム』を例に)

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今回、両方の立場の人の話を聴いて/読んで、議論はまだはじまったばかりだと思った。個人的には性をどう描くかが問題だと思う。例えば『僕たちがやりました』の中でなぜ主人公の妹の体を意味もなくセクシーに、エッチなアングルから描く必要があるのか。単純に部数を伸ばすためのサービス・ショットなのではないか。出て来る女の子の体のラインを協調し、下着などが見えるアングルから描くことは、男の子が女の子をどう捉えるかという例を示してしまっているのではないか。

『僕たちがやりました』では、主人公のトビオが好きな女の子蓮子に性交渉を求めるシーンで、無理やりにしようとして相手が嫌がって拒むシーンが出て来る。逃亡生活に入ってから主人公がゲイの浮浪者に性交渉を求められ、立場が入れ替わったことで、女の子の気持ちが分かって、ただ性の対象としてのみ扱われて嫌だったろうな、と気付くシーンが出てきて、とても素晴らしかったし、全編に渡り暴力が描かれているのに、例えば不良の市橋が車椅子になって動けないのに、同じ高校の別の不良に目の前で蓮子がレイプされそうになるシーンで、レイプというものが気軽に高校生が行うものとして描かれていたことがとても気になりつつも、命がけで蓮子を守ろうとしたところではとても感動的で、作品全体としては暴力というものの卑しさが伝わってくる内容ではあった。

ただ高校生の時と同じく大人になったトビオが、電車の中で女子高生のパンツをこっそりのぞこうとしたり、高校生のマルが買春をしたりといった場面は、性犯罪は大して悪いことではないという印象を読者に与えかねないと個人的には感じてしまった。

スウェーデンの映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(スウェーデン語版)でレイプシーンが出てくる。しかしこの映画でのレイプシーンは、徹底してレイプ犯が醜く、レイプによる性行為が汚らしく残酷に描かれていて、これを観て性的興奮を覚える人はいないのではないかと思った。こういう描き方をしてみてはどうだろうか。 ただ『僕たちがやりました』で蓮子がレイプされそうになるシーンでは、未遂に終わって、蓮子がセクシーに描かれていなかったのは救いだった。蓮子が強姦される様子が読者も加害者と一緒の目線で楽しみ性的興奮を覚えるような描き方がされていなかったのは、とてもよかったと思った。 とはいえ『僕たちがやりました』では買春をしたり、女子高生のパンツをのぞいたりした登場人物はそのことについて罰されない。それが単純に現実社会を投影したものという見方がされるかもしれない。問題なのは現実社会のしくみなのだろうか? それとも描き方なのだろうか? そのどちらもに私には思えるが、エビデンスがないので、感情論として片付けられてしまうのだろうか。

Feminism For Everybody『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』読書会、個人的感想

Feminism For Everybody『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』読書会に参加してきました。

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はじめに上智大学法学部教授の三浦まりさんのお話を聞きました。私は先生のご講演を先日With Youさいたまで聴いたばかりだったのですが、『私たちの声を社会へ 世界の潮流と日本の課題』という演題で、クオーター制のこと女性議員比率、パリテ、政治男女均等法などについてお話されていた前回と今回のお話はまた違った内容でした。今回は最近のフェミニズムのムーブメントについてお話されていました。

 

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「エマ・ワトソン、その胸の見せ方はいいの?」ノーブラ写真に論争起こる
フェミニズムにも違いが?実はあまり知られていないフェミニズムの多様性って? ビヨンセとアディーチェ
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会にはサプライズで訳者のくぼたのぞみさんがいらしていて、お話されました。

その後グループに分かれてディスカッションをしました。

(印象的だったこと)

●『バッド・フェミニスト』の帯に名前が出て来るジェーン・スーさんの、女は8種類に分かれて連帯できないという言葉。今回、残業の少なさなどを判断基準に企業を選ぶ女性が多いのは甘えではないか、女性も働くべきです、などとおっしゃる方がいて、主婦の私はなぜだか勝手にぐざっときていた。人は立場、状況が違うとなぜだか相手と自分を比べて、後ろめたく思ったり劣等感を覚えたりする。でも相手が悪気がないのは分かった。何かを発信する時、必ず誰かが傷つく。恐れてばかりいたら、何も言えない。

●日本企業で働いていると、普通の服を着ているのに、あなたの服はセクシーすぎると言われたり、同僚から付きまとわれても、最初に応じたあなたが悪いと女性のせいにされたり、従順でないとお前はいい大学は出ているけれど、そんなに頭はよくないと言われたり、女性に対するセクハラ・パワハラが横行していることが分かった。私も会社勤めをしている時に、「自分は何でもできると思っているんじゃないぞ」と年配の男性に言われてショックを受けたことがある。企業の優しさ、モラルというのが大きなディスカッションのテーマになったような気がする。

 *『ザ・カンパニー』ではなく、『ザ・コーポレーション』の誤りでした。   ekono

●フェミニズムについての漫画を女性向け雑誌に持ち込んだ漫画家さんが、男性批判につながるという理由で、企画を却下された。女性向け漫画雑誌なのに編集長は男性だったそう。多分幼い女の子のエロ表現について気になるのは、メディアが暴力や批判の矛先を大企業など権力、お金を持つ相手には向けず、弱い立場の女、子どもに向けやすいからではないかと思う。強者にこびへつらい自主規制するくせに、と思ってしまうのかも。

 

●男が悪いのではない、男女の関係性の再構築、社会のしくみを変えることが大事。特権性の特徴は盲目であること。  

 

最後に紙に今日のまとめを書いてガラスに貼り付けました。 20170709_155837 私は「ベストマザー賞をもらうのはどうしていつも専業主婦じゃないの? 女性が皆、会社で8時間働くようになれば、それでいいの? 怒れるフェミニズムはもうやめよう。今私達に必要なのは優しいフェミニズム」(少し修正しました)と書きました。 参考:

映画『いのちのはじまり 子育てが未来をつくる』試写会、個人的感想

日比谷図書文化館で行われた『いのちのはじまり 子育てが未来をつくる』試写会に参加させていただきました。

この映画には様々な分野の専門家が登場します。

ハーバード大学児童発達研究所の所長ジャック・ションコフhttp://mui-therapy.org/newfinding/abuse_damage_brain.htm、『成功する子、失敗する子』でも触れられている。)、ワシントン大学学習・脳科学研究機関神経科学者パトリシア・クール(http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20141219/429325/

経済学者フラビオ・クーニャ

児童心理学者アリソン・ゴブニック

 

心理学者 アンドルー・N・メルツォフ

経済学者ジェームズ・ヘックマン http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20141114/273808/http://toyokeizai.net/articles/-/73546?page=3)、マンダ・ギレスピー

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精神分析医ヴェラ・コネリー

児童発達研究者エイドリアナ・フリードマン、遊びの研究者レナータ・メイレレス、心理学教授リノ・デ・マセロなど。

NHKスペシャル『ママたちが非常事態!?』が好きな人なら必ず熱中できるであろう映画です。

 

(印象に残った内容)
●赤ちゃんは理性がないと誤解されていたが、30年の研究でそれが間違いだと分かってきた。子どもは科学者であり、世界で一番学ぶ能力が高い。子どもは集中できないのではなく、集中することしかできないのだ。周囲からの情報を敏感にキャッチする。

●子どもがはじめて出会うのは母親。母親との関係の中で世界を知り、人を頼ることを覚える。

●主婦は社会を築く人間を育てているのに、「いつ復職するの?」とまるで社会に役立っていないかのように言われるのはおかしい。子どもと8時間も離れているのは長すぎる。親子の時間は質が大事だと言うが、量だって大事だ。例えば仕事を30分で集中してやりましたと言っても誰も職場の人は納得しないでしょう、と主張する人も。この映画には色々な主義・主張の人が出てくる。

●デンマークなどのように長期間有給で産休、育児休暇がとれる国は、母乳育児の割合が高い。ただしデンマークでも産休を1年とらずに半年で復帰する人も多い。ただ女性の立場が強いゆえ男性が4か月育休をとるケースが多い。

●父親が育児に参加しないのは夫婦の問題ではなく、親子の問題。男親も子どもと絆を深める必要がある。

●育児には色々な方法があるのに母親は自分が正しいと思いこみ、父親のやり方を間違っているとみなし、男性を育児からしめだしがち。
●子どもにおもちゃをすぐに与えすぎない。かといってあまりにも手に入りにくいと思わせるのも駄目。そうすることで子どもはさらにおもちゃに夢中になる。

●大人は子どもと過ごすことで、例えばチョコレートの銀色の包み紙がきらきら光っているとか子どものような感受性を取り戻すことができる。

●子どもには常に伝えたいことがある。子どもの声に耳を傾けることが大事。

●子どもにとって帰属意識を持つことが大事。社会、家族、地域の一員と感じる。

●癇癪は子どもが親と分離しようと、自立しようとしている証拠。親に無意識で反発しているのだ。

●親が喧嘩しているのを見て育った子は、喧嘩が問題解決の手段だと思ってしまう。

●子育てには村が必要とアメリカでは言われている。子どもは大人1人では手に負えない。社会で育てなくてはならない。社会皆で助け合えば、喜びも分かち合える。

●時短をとっていたり、産休・育休をとる人に対し、子どもを持たない人はずるいと言う。しかし、社会をこれからつくっていくのは子ども。今ある社会に1人1人が尽くすことで、子どもが将来住みやすい社会をつくることができる。

●親にとっての最大の孤独はコミュニティの喪失。

●政府は子どもを助けようとはしても、十分に養育できない親のことは支援せず、罰しようとする。政府は親を助けることで、親が子どもと過ごす時間を増やしてあげるべき。

●1ドル子どもに投資すると、7ドルの経済的利益が生じる(犯罪が減り、収監などの費用が減る。人間の能力に投資すると生産力が上がる)。

●同性婚のカップルはそれぞれ父親、母親両方の役割を果たせる。同性婚のカップルでも社会が認めれば、子どもを育てることができる。

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子どもを保育所に預けようか、何年母親が手元で育てるのが子どもにとっていいのか悩んでいた私ですが、貧困の中で必死に働きながら子どもを育てる人達の姿を見て、どんな状況にあっても、親が子どもを愛する気持ちに優劣を付けることはできない、それぞれの事情があることを再認識し、救われました。子どもを大事に思う気持ち、子どもが好きだという気持ちにもっと自信を持って、生活やお金と折り合いをつけながら、自分のできることをしてあげたいと思いました。子どもの発達、育児、遊びなど、学術的な研究がもっとお母さんにアクセスしやすくなれば、迷ったり悩んだりする人も減るのではないでしょうか。今回出てきた専門家の著書には未訳のものも多いので、ぜひ訳してほしいです。

映画の後には臨床心理士、日本プレイセラピー協会理事の本田涼子さんとユニセフの方のトークがありました。会場の様子をのせてよいとのことでしたのでアップします。

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本田さんがおっしゃっていた飛行機が緊急着陸する時、酸素マスクを最初につけるべきなのは親。子どもに最初につけて、親が窒息したら共倒れになってしまうという言葉が印象に残りました。また本田さんはブル-ス・D.ペリ-の名前も挙げてらっしゃいました。

 

 

最後に子どもと親の愛着を育てるために寝る前に佐々木マキさんの『はぐ』を読んで、ハグしてから寝るといいとも教えていただきました。家に帰ってから子どもが何を見て集中しているのか観察するのを面白く感じました。子どもと過ごすのが楽しくなりそうです。育児が辛いママにもお薦めの映画です。パパと一緒に観てもよさそうです。この映画は父親と母親が子育ての責任をなすり付け合うような映画ではありません。10ある育児時間を父親と母親で分担しあうというよりは、母親は母親で子どもとの関係を築き、父親は父親で子どもとの関係を築く。育児は夫婦の問題ではなくて、親子の問題と捉えることで、パパへのイライラも減りそうに思えました。私は子どもが好きだから、子どものために、育児をする。そういう思いで育児したいです。また社会全体で育児を支えようと考えてくれている人達の存在もまた心の支えになりそうです。

 

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私も子どもの遊び、子どもの冒険心、探究心を描いた児童書や育児書を訳していきたいです。

参考:『かぜ』

http://reikohidani.net/2479/

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『あめ』

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http://reikohidani.net/2762/

『キュッパのはくぶつかん』

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http://reikohidani.net/774/

またデンマークの子育て、ファミリー・セラピーの専門家、Jesper Juulさんの育児書もいつか翻訳できたらと夢が膨らみます。

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デンマークの脳科学と育児についての本も訳したいです。

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またデンマークのおもちゃ研究家の本や、赤ちゃんとの遊びについての本も訳したいです。

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スウェーデンのプレイ・セラピーについての絵本もあります。写真はLilla Kattenさんのサイトより。現在品切れのようですが、かつて扱いがあったようです。

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47. 続・カンヴァスの向こう側 リディアとトラの謎

続・カンヴァスの向こう側 リディアとトラの謎』フィン・セッテホルム作、評論社

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(google art projectをはじめインターネットを使って作品に登場する、または関連する絵を巡ってみましょう)

google art projectとは? 使い方など。

☆2つ目の動画の05:53~ゴッホの絵の話が出てきます。

1章 フィンセント・ファン・ゴッホ

(技法について)

ゴッホの絵についてリディアは「現実の世界そのままではなく、目に映るものへの感情が表されているみたい」(54ページ)と言っています。

ゴッホは色とりどりの毛糸の束を机に置いて、色の組み合わせを見るのに使っていたようです(55ページ)。

 

『夜のカフェテラス』はhttp://musey.net/1で彩色されたものが観られます。  

TED ファン・ゴッホの 『星月夜』に隠れた意外な数学 ― ナタリア・セント・クレア

☆肖像画は出てきますが、どの絵かは特定されていません。ゴッホは肖像画を複数遺しています。

☆絵自体は出てきませんが、黄色い家は登場します。

3章 フリーダ・カーロ
(技法について)
カーロの夫の壁画家、ディエゴ・リベラは111ページで「インディオの厳しい生活を描くだけじゃだめなんだ。誇りや勇敢さを表現したい。大衆の心に、希望をともすような壁画にしたいんだ」、「芸術はハムだ。芸術は卵だ。芸術は人々に栄養を与える」と述べています。 フリーダとリベラの波瀾万丈の夫婦関係を見ていると、女性としての生き方について考えさせられます。

TED ed Documental Frida Kahlo

 

☆絵自体は出てこないが、事故にあったと102ページに出てくる。この絵は事故の手術後に描かれたもののよう。

 

☆部屋に飾られていたがいこつの飾り。 以下の動画で、125ページの『水が私にくれたもの』をはじめカーロの作品を観ることか゛できます。 https://youtu.be/iZ41k9pskIE 作中に出てくるカーロの絵の多くはgoogle art projectで見つけられなかったのですが、他の絵はこちらで観られます。

フリーダ・カーロの夫のディエゴ・リベラの作品群はこちらで観られます。

  お薦めのDVD。私の住む町のTSUTAYAでは借りられました。

お薦めの本。

 4章 葛飾北斎 (技法について) 北斎は143ページで「思えば俺は六歳の時から、自然に目に映るものを絵に写しとっていた。それ以来絵を学び続け、五十歳のころから絵や版画を世に出してきた。だが、今見ると、七十歳より前に描いた絵は、取るに足りないものばかりだ。ようやく七十三にして、鳥獣虫魚の骨格や植物の成り立ちが少しは分かわかってきたと思っている。だから、この先も絵の修行に励めば、八十歳にはもっと良い絵が描けるようになり、九十歳になれば極意を極め会得し、百歳でまさに人知を超える絵が描けるのではないだろうか。そして百十歳ともなれば、一筆ごとに命を持つようになることだろう」と言っている。

☆北斎の作品群はこちらで観られます。
『北斎漫画』はgoogle art projectで見つけられませんでしたが、とても面白いのでぜひ検索してみてください。 本もあります。
  
お薦めの博物館:江戸東京博物館 http://edohaku-special.net/
http://edohaku-special.net/article/hana/page02.html
すみだ北斎美術館

北斎についてのサイト:http://hokusai-museum.jp/modules/Page/pages/view/401

杉浦日向子さんの漫画『百日紅』や映画『百日紅~Miss HOKUSAI』でも北斎やお栄について知ることができます。

『うつくしく、やさしく、おろかなり  ─私の惚れた「江戸」』『江戸へようこそ』なども面白いです。

5章 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

(技法について)

210ページで教皇はカラヴァッジョと、その天敵バリオーネについて次のように言っています。 「近頃の作品は、どうも気に入らない。情けないことに、宗教美術そのものが衰え始めているのではないだろうか。視察に回る度に、その思いを強くしていた。例えば最近評判のバリオーネという画家がいるが、教皇は彼の絵は中身がなく、魂が宿っていないと感じる。今一番有名なのはカラヴァッジョで、教皇は彼に大きな期待を寄せていた。カラヴァッジオの絵には素朴で敬虔な民が描かれ、絵の中の人物は、内側からほとばしる光によって輝きに満ちている。その作品は、神が投げかける光そのものを再現しているのだ。ところがあの男は、乱暴で行いが悪く、何度も警察沙汰を起こしている。思慮に欠ける点が、時としてその作品にまで表れるのが最も困る。例えば絵の中の馬が無遠慮に尻を向けていたり、使徒パウロの足が汚れていたり……」

☆176ページでカラヴァッジョの描く聖人の足が汚れているとして枢機卿に問題視されていたが、確かにこの絵をはじめ足が汚れている絵は複数あるようだ。

☆184ページで出てきたルイージが絵のモデルをしたと物語中ではされています。

☆『聖母の死』192ページで「リディアは、マリアさまの死に立ち会った女の悲しみを思って長い間座っていた」とある。リディアがモデルをしたのは手前のピンクのワンピースを着た若い女の人の役か? リディアは194ページでこの絵について「すごくきれいで、泣きたくなるぐらい悲しい絵。あと、内側から光が差しているように見えるわ」と評している。

☆197ページでカラヴァッジョが自作『勝ち誇るアモール』をバリオーネが真似て描いたとして憤っているのはこの絵。画像をクリックしてみてください。カラヴァッジョが言うように、下で蹴り飛ばされている天使は、『勝ち誇るアモール』の天使に似ていませんか? 198ページでカラヴァッジョがバリオーネについての口汚い詩を詠みますが、憤るのも少し分かる気がします。

☆210ページで教皇が、「絵の中の馬が無遠慮に尻を向けてい」ると憤っていたのはこの絵か? 参考:NHK『カラヴァッジョ 光と闇のエクスタシー~ヤマザキマリと北村一輝のイタリア~

(あとがき)

訳者あとがき

この本は、スウェーデンで二〇一〇年に発表された『カンヴァスの向こう側――少女が見た素顔の画家たち』の続編です。
前作はイタリアの児童書賞、チェント賞を、オランダのセレクシス青少年文学賞を受賞、フィンランド語やポルトガル語、韓国語などにも翻訳されるなど国際的に高い評価を得ました。また二〇一三年に出された邦訳は、第五八回西日本読書感想画コンクール及び、第二六回読書感想画中央コンクールの指定図書に選ばれています。そのことを作者にお伝えしたところ、とても喜んでいただけ、受賞者に向け、「未来の芸術家の君へ」と題したお手紙を書いてくださいました。後者のコンクールに入賞された皆さんの授賞式の会場に、訳者の私は翻訳したお手紙をお届けすることができました。その時、目にした受賞者皆さんの笑顔は、今でも忘れられません。他にも絵にしてくださった方々、本を読んでくださった皆さんに感謝いたします。

ここで一巻の内容に簡単に触れさせてください。絵を描くのが大好きな十二才の少女リディアが、学校の帰り道、公園のベンチで絵を描いて鳥に鉛筆をかすめとられてから、奇妙な出来事が起こり始めます。さらにおじいさんと国立美術館に行った彼女は、レンブラントの絵に触れ、一六五八年のオランダ、アムステルダムへやって来ます。その後も様々なピンチに見舞われながら、レオナルド・ダ・ヴィンチやエドガー・ドガ、ウィリアム・ターナー、ダリといった画家の時代へ次々とタイムスリップしていきます。そこで偉大な画家の素顔に触れ、絵の描き方を観察したり習ったりすることで、リディアは成長していきます。
そんな魔法の旅から戻ってしばらくし、十三才になったリディア。タイムスリップしたことを家族や友だちに話しても信じてもらえず、次第に孤独を感じるように。生気の抜けたような退屈な絵しか描けなくなったところから、今回の二作目ははじまります。ある晩、観に行ったマジック・ショーの会場で、大好きなおじいちゃんが行方不明になってしまいます。家に戻ったリディアは、携帯電話におじいちゃんを返してほしければ、川沿いの古い小屋に来るようにという謎のメールが届いていることに気が付きます。翌日、待ち合わせの場所で待ち構えていた人物は、リディアに再びタイムスリップし、当時貧しかったゴッホから名画を安値で買って帰るよう言うのです。リディアは渡された不思議なブレスレットを使って、ゴッホの時代へ。そこからさらに不思議なことに、物語上の人物であるはずのロビンソン・クルーソーの暮らす島にやって来てしまいます。
その後リディアはフリーダ・カーロの時代で、死を明るくとらえるメキシコの人々の死生観や、カーロの自由な思想や特異な世界観、パワフルで情熱的な女性としての生き様などに触れます。
葛飾北斎の時代の日本では、七十九才になってもなお、満足することなく、絵の技術を磨き続ける北斎の並々ならぬ研究心と情熱を感じ取ります。
カラヴァッジョの下では、少年を召し使いとしてこき使い、体罰をも与える画家の姿にショックと憤りを覚えながらも(スウェーデンでは一九七九年に、子どもへの体罰が法律で禁止されました)、彼から才能を見初められ気に入られたリディアは、モデルを頼まれ、画家の卓越した絵画技法を目の当たりにします。
さらに核兵器を廃絶するべきと主張したことで、軍から防衛上の危険分子とみなされ、盗聴されていたアインシュタインや、飛び級して大学で学ぶ数学少女の、天才ゆえの孤独や、時間の不思議さにも触れます。
作品中では、これらタイムスリップの場面と並行して、おじいちゃんを誘拐した黒幕の動きもスリリングに描かれています。誘拐犯は一体何者で、その思惑は何なのでしょう? またリディアの行く先々であらわれるトラは、一体?
この作品は実在した人物や実際の芸術作品が登場する歴史絵画ファンタジーで、北斎が掃除をしたくないという理由で何度も引っ越しをしたことなど、現実に則して描かれている部分と、作者のイマジネーションで描かれた部分とが入り混じっています。例えばアインシュタインは近所の女の子に数学の宿題を教えていたことがあり、その女の子の母親に、自分の方がむしろその子から様々なことを教わっているのだと言ったという逸話が残されているそうですが、ひょっとしたら最後の章で大活躍する天才数学少女は、作者がこの逸話から着想を得て創造したキャラクターなのでしょうか? こんな風にどこまでが現実で、どこからが虚構か想像を膨らませられるのも、この作品の魅力のひとつです。
ただ四章の北斎の章については、残念ながら作者のフィンさんらしからぬ誤りが見られました。北の果てのスウェーデンは、日本についての資料が乏しいのでしょうか。そのため訳出については、江戸文化の研究者で、児童書の翻訳家でもある佐藤見果夢さんから大きなご助力をいただき、誤りも正してもらいました。この場を借りてお礼申し上げます。
本作の冒頭でスランプに陥り、思うように絵を描けなくなっていたリディアも、フリーダ・カーロの名画、『二人のフリーダ』からインスピレーションを得た、『二人のリディア』という絵を描き、フリーダから感動的な賛辞をもらったり、彼女の夫で壁画家のディエゴ・リベラから「芸術はハムだ。芸術は卵だ。芸術は人々に栄養を与える」といった金言をもらったり、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や『北斎漫画』の余りの素晴らしさに、自分は一生かけても北斎のような絵を描けるようにはならないだろうと嫉妬し、刺激を受けたりと、次第に絵を描くことへの情熱を取り戻していきます。
またリディアは六章でアインシュタインから、今日の次に明日が来るのは当然ではなく、時間は時と場合によって、一定でなくなるということ、また現実というのはしょせん、ただの錯覚かもしれないという問いを投げ掛けられます。彼の「可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ」という言葉についても考えながら、時間と空間だけでなく、現実世界と物語の境界線をも越えた今回の冒険ファンタジーを読んでいただけると、嬉しいです。
絵画芸術だけでなく、物理や科学のテーマやミステリ的な謎の要素も盛り込み、魅力を増した本作をどうかお楽しみください。

『絵本を通して見る北欧の子どもや暮らし』

2015年の6月に、新大阪で『絵本を通して見る北欧の子どもや暮らし』をテーマにデンマークの図書館司書、沢広あやさんと一緒にお話をしました。

 

http://hyggelig-news.com/2015/06/03/14539/

 

北欧の絵本や翻訳の仕事について講演をしたり、本が読みたくなるようなブックトークを子ども向けにしたりしたいと思っています。交通費等少しいただけるようであれば、私などでよければ、できるだけうかがいたいと思っています。お気軽にご連絡ください。