Reiko Hidani HP

『性表現規制の文化史』&第1回メディアと表現について考えるシンポジウム 「これってなんで炎上したの?」「このネタ、笑っていいの?」個人的感想

seihyougen
2017年5月に第1回メディアと表現について考えるシンポジウム 「これってなんで炎上したの?」「このネタ、笑っていいの?」を聴きに行ってからずっともやもやしていたことがある。
シンポジウム自体は素晴らしいものだったが、自分が表現規制支持派なのかどうか、シンポジウムを聴きに行って、ますます分からなくなってしまったのだ。

シンポジウムに関するブログなど……http://media-journalism.org/blog/field-review/355-mediaexpression http://d.hatena.ne.jp/beniuo/20170525/1495712188 https://www.facebook.com/Media.Expression.Symposium/?fref=ts http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/22/media-expression-symposium_n_16749504.html http://www.huffingtonpost.jp/yumi-sera/flaming-yumi-sera_b_16740312.html

ちなみにシンポジウムは女性蔑視、差別を助長するCMの炎上についてがテーマで、性表現規制は、その中の1トピックとしてのみ扱われていたのに対し、『性表現規制の文化史』では全編に渡り性表現規制について論じられていた。

私は北欧の児童書、特にヤングアダルト(YA)の翻訳をしている者だ。私が北欧の児童書、特にYAに興味を持ったのは、北欧の児童書、YAにタブーがほとんどないからだった。北欧の児童書では、政治、性、お金、権力、社会の不平等、差別、戦争、暴力、離婚などについても、手加減なしにオープンに描かれている。しかし北欧は人権保護に熱心な国でもある。これらの国が表現の自由と人権配慮という一見矛盾しそうな2つのバランスをどのように保っているのかに私は強い関心を持っている。 表現の自由と人権への配慮の問題が最も顕著に現れた出来事に、ユランスポステンというデンマークの新聞紙によるムハンマドの風刺画掲載騒動がある。会見を求められたラスムセン首相が「政府はメディアを規制していない。干渉することは表現の自由を危うくする」として会見に応じなかったことや、同紙による「宗教をことさら嘲ちょう笑すべきではないが,民主主義,表現の自由のもとでは,からかいやあざけりなどを受容することが必要だ。しかし一部のイスラム教徒は,近代社会,世俗社会(のこうした考え)を受け入れず,特別扱いを求めている。このため,われわれはイスラムについて自主規制という危険で際限のない坂をのぼることになった。そこで今回,デンマークの風刺画作家組合のメンバーに,彼らが考えるムハンマドを描いてくれるように依頼した…」「旧ソビエトでの特派員の経験から,私は侮辱という理由を使って検閲が行われることに,敏感になっている。これは全体主義がよく使う手で,サハロフやパステルナークなど人権運動家や作家の身の上にも起こったことである…」という意思表明になぜだか私は同意できず、その時もすごくもやもやしたのだった。私にはデンマークの社会になじもうと頑張っているイスラム教徒の友人がいて、彼女がただムスリムということだけでデンマーク人から理不尽に虐げられたり、批判されているのを見ていたから、イスラムの人達の尊厳を傷つけてまでなぜそんな風刺画を描かなくてはならないのかどうしても理解できなかったのだ。

シンポジウムで取り上げられたような、女性蔑視、ジェンダーの固定化と思われる表現についての批判、炎上について、最近日本のメディアでも取り上げられることが増えている。

シンポジウムでは、昔はもっと自由にできたと感じている制作者側と、不快な表現に批判的な声を上げるようになった受け手の間で、分断が起きていると指摘があったが、実際、表現者側と受け手、また規制を検討する側という立場、意見の異なる人同士が直接意見をぶつけ合う場はあるのだろうか? シンポジウムは表現を問題視する立場の人が多かったように思えた。またとても気になったのが、シンポジウムではお笑い芸人さんなど、決定権があまりない、比較的、力の弱い人ばかりをやり玉に上げられ、政府やテレビ局、大企業などもっと強い権力を持つ人への批判が控え目だったことだ。

参考:マスコミの自主規制について

seihyougen

『性表現規制の文化史』では、『家族・性・結婚の社会史』(イギリスの歴史学者ローレンス・ストーン)や『処女の文化史』(アンケ・ベルナウ)などを参考に、性規範、卑猥の意味がどのように西洋社会で規定されてきたのか、『日本人は性をどう考えてきたか』(市川茂孝)などを参考に、日本における性表現規制の歴史の概略が書かれていた。

19世紀、特にアメリカで事実報道より扇情的なことを売りにすることで新聞の部数を伸ばしたイエロー・ジャーナリズムが、男性の性的攻撃性を煽るものとして非難の対象になったことなども書かれていた。 またポルノを激しく批判したのが、婦人参政権運動を行ったキリスト教の婦人団体であったこと、男性の性的堕落を批判することで、女性の優位を協調しようとしたとも。このような団体は売春やポルノを男性による女性の性的搾取、女性の尊厳を冒涜するもの、ソドミーやオナニーを煽り、強姦等の性的犯罪へと若者を誘導する入口となると見なした。

さらに1960年代のアメリカで、女性が性的に従属的な立場を求めているような性表現が問題視され、それまでのような宗教的な理由からではなく政権力の問題から性表現規制を求める運動が活発化した。

また1980年代に一部のフェミニストにより、ポルノの存在そのものを性差別として運動を行い、いくつかの地方議会で性差別という観点からポルノを規制する条例が検討、採決されたともあった。それに対し、全米書店協会、アメリカ自由人権協会が憲法違反として執行差し止めを求める連邦訴訟を起こした。

ただフェミニストの中でも立場は様々で、性表現規制条例は性の抑圧を招くだけで、女性の解放と性差別是正にはつながらないとする人達もいたようだ。 1982年のファーバー事件の裁判の判決で青少年を性的な対象とする表現だけでなく、青少年が性的な表現に触れることまで青少年に害になるとされたものの、青少年が成熟した大人と比べて性表現から害を受けやすいという証拠は提示されなかった。

著者は日本で性表現の拡大により、性犯罪の増加や若者の道徳的頽廃が進んだという証拠はなく、むしろ性犯罪は減少傾向にあり、若者は実際の性行為から離れている、これらと因果関係が立証されていないのに、性表現を規制することへ疑問を呈していた(上は私が個人的に印象的だと思った箇所で作者の論を全て網羅したものではない。詳しくは書籍全編を参照)。

この本を メディアと表現について考えるシンポジウムで素晴らしいプレゼンをされた田中東子さんの『メディア文化とジェンダーの政治学―第三波フェミニズムの視点から』と併せて読んでみて思ったのが、日本でメディアにおいて女性がどう描かれているのかについての研究が余り進んでいなくて(『日本人は性をどう考えてきたか』(市川茂孝)という作品はあるようですが)、この分野はこれからの学問であり、白田さんや田中さんは日本においてパイオニア的存在なのではないかということでした。

medeliabunka 主に西洋での議論、法について書かれたお2方の本は大変参考になったが、アニメ、漫画という特殊なカルチャーを持つ日本ではどうなのかが書かれた本や研究も今後追っていきたい。

結局科学的な論拠、エビデンスがないと、異なる意見の人を納得させるのは難しいのかもしれないと感じた。異なる意見の人同士が議論する様子もぜひ観てみたい。 また北欧でどのような議論が行われてきたのかについても引き続き勉強していきたい。 https://www.livetblantdyrene.no/media   marte

(性、暴力の描き方ーー『僕たちがやりました』とスウェーデン映画『ミレニアム』を例に)

bokutati

 

今回、両方の立場の人の話を聴いて/読んで、議論はまだはじまったばかりだと思った。個人的には性をどう描くかが問題だと思う。例えば『僕たちがやりました』の中でなぜ主人公の妹の体を意味もなくセクシーに、エッチなアングルから描く必要があるのか。単純に部数を伸ばすためのサービス・ショットなのではないか。出て来る女の子の体のラインを協調し、下着などが見えるアングルから描くことは、男の子が女の子をどう捉えるかという例を示してしまっているのではないか。

『僕たちがやりました』では、主人公のトビオが好きな女の子蓮子に性交渉を求めるシーンで、無理やりにしようとして相手が嫌がって拒むシーンが出て来る。逃亡生活に入ってから主人公がゲイの浮浪者に性交渉を求められ、立場が入れ替わったことで、女の子の気持ちが分かって、ただ性の対象としてのみ扱われて嫌だったろうな、と気付くシーンが出てきて、とても素晴らしかったし、全編に渡り暴力が描かれているのに、例えば不良の市橋が車椅子になって動けないのに、同じ高校の別の不良に目の前で蓮子がレイプされそうになるシーンで、レイプというものが気軽に高校生が行うものとして描かれていたことがとても気になりつつも、命がけで蓮子を守ろうとしたところではとても感動的で、作品全体としては暴力というものの卑しさが伝わってくる内容ではあった。

ただ高校生の時と同じく大人になったトビオが、電車の中で女子高生のパンツをこっそりのぞこうとしたり、高校生のマルが買春をしたりといった場面は、性犯罪は大して悪いことではないという印象を読者に与えかねないと個人的には感じてしまった。

スウェーデンの映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(スウェーデン語版)でレイプシーンが出てくる。しかしこの映画でのレイプシーンは、徹底してレイプ犯が醜く、レイプによる性行為が汚らしく残酷に描かれていて、これを観て性的興奮を覚える人はいないのではないかと思った。こういう描き方をしてみてはどうだろうか。 ただ『僕たちがやりました』で蓮子がレイプされそうになるシーンでは、未遂に終わって、蓮子がセクシーに描かれていなかったのは救いだった。蓮子が強姦される様子が読者も加害者と一緒の目線で楽しみ性的興奮を覚えるような描き方がされていなかったのは、とてもよかったと思った。 とはいえ『僕たちがやりました』では買春をしたり、女子高生のパンツをのぞいたりした登場人物はそのことについて罰されない。それが単純に現実社会を投影したものという見方がされるかもしれない。問題なのは現実社会のしくみなのだろうか? それとも描き方なのだろうか? そのどちらもに私には思えるが、エビデンスがないので、感情論として片付けられてしまうのだろうか。

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