翻訳勉強会

2016年の3月にノルウェー大使館であったノルウェー文学セミナー(申し込みした人は誰でも参加できる会でした)で知り合うことができたノルウェー語翻訳者さんから思いがけずお声がけいただき、翻訳勉強会に参加させていただきました。
講師はノルウェー人の日本語翻訳者さん。村上春樹さんの作品などを翻訳されている方です。

テキストは4つ。どれも1ページ程度のとても短いもので、タイトル、作者は伏せられていました。

1つ目のテキストは鳥肌が立つほど面白く、技巧に満ちたもので、私は文学史にその名をとどろかす文豪が描いたものだろうと予想していました。

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1.

あらぬ考え

私の家に男が押し入り、ナイフで家族を襲った。私が恐怖による無気力状態からようやく脱し、飛びかかった時には、その狂った侵入者はすでに娘の胸を刺し、さらに末の子どもを――まだ乳飲み子であるかわいい坊やの喉を切り裂いていた。男は私を虫けらのように追い払った。恐怖、困惑、そうだ、復讐心に狂った私は背中を一突きしようとキッチンの引き出しから、急いでナイフを取り出した。ところが刺そうとする度、腕は動かなくなってしまうのだった。やがて三人の子どもの血で足を滑らせた私は、床の高さから、おぞましい光景を眺めた。その視点は、殺人者のそれだった。私は気付いた。その男は、知らぬ者ではない。子ども達も、わが子ではない。私自身もその男と同じく、人間ではないのだと。私は殺人者の頭の中の、あらぬ考えだった。今、私は男を制止できずに、叫ぶ妻を切りつけている。

En uønsket tanke

En mann brøt seg inn i huset mitt og angrep familien min med kniv. Han hadde alt rukket å stikke datteren vår i brystet og å skjære over halsen på vår yngste, den kjære gutten min, bare spedbarnet, da jeg endelig fikk rykket med løs fra fryktens apati og kastet meg over den gale inntrengeren. Han føyset meg vekk som en liten mygg, en knott. Skrekkslagen og forundret, ja, gal av hevngjerrighet grep jeg straks en kniv fra kjøkkenskuffen for å stikke ham i ryggen, men det var som om armene mine sovnet hver gang jeg forsøkte å stikke. Snart skled jeg i blodet fra de tre barna mine, og der nede fra gulvet så jeg plutselig den grusomme scenen fra morderens øyne, og jeg forstod at han slettes ikke var en fremmed, at barna ikke var mine egne og at jeg selv ikke var et menneske som ham, Jeg var en uønsket tanke i morderens hode. Ute av stand til å stoppe ham, stod jeg nå og hugde løs på den skrikende hustruen.

 

先生が私達参加者に、「この文章を読んで、最初にあれ、おかしいな(この文章は語り手を被害者かと最初思わせておいて、途中で実は語り手は殺人者であるということが分かるというトリッキーなものです)と違和感を感じるのはどこですか?」と質問しました。私は青字のところだと思っていたのですが、先生は赤字のかわいい坊や(den kjære gutten min)というところだとおっしゃいました。ノルウェー語だとここでkjæreというのがものすごく違和感があって気持ちが悪いのだそうです。なので「愛しい私の男の子」ではなく、参加者の1人の方がしていたように、「かわいい坊や」とするのが今のところ一番いいのかな、と思っているのですが、それで十分なのかは、いまだに分かりません。そしてもし冒頭の時点で違和感がすでに出ているのであれば、青い部分はもっと原文に寄り添わせ、無為に違和感を強調せずに、「床の高さから、殺人者の視点からそのおぞましい場面を眺めた。」とするので十分かもしれませんが、日本語としてどちらがしっくりくるのか、これもまだ自分の中で答えが出ていません。こんな風にその作品で何が肝なのかをつかむことが、翻訳では大事なんだそうです。

先生は緑のところ、Skrekkslagen og forundret, ja, gal av hevngjerrighet「恐怖、困惑――そう、復讐心だ。復讐心に狂い」などという風にリズムを変えずに、原文のリズムを残して一続きに訳した方がよいのでは、とおっしゃいました。本当にその通りだと思いました。「恐怖、困惑、そうだ、復讐心に狂った」が今のところ、一番よいのでは、と思うのですが、もっとよい訳があればどなたか教えていただけると嬉しいです。

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そして楽しい種明かし。このテキストを描いたのは、何と1978年生まれとまだ若い新人作家のJoakim Kjørsvikさん。”Åpenbart ingen nabo”(明らかに隣人はいない)という短編集の一篇だと明かされました。

joakim

家に帰ってから早速、ネット書店で電子版を購入しました。最高にクールで才能溢れる作家さんだと思いました。

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2つ目のテキストはHanne Ørstavik”Hakk”(Cut)という長編小説の冒頭部分、3つ目はArne Lygreさんの”Tid inne”(In time)という短編集だということも明かされました。

hakk  arne

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そして面白かったのが4つ目のテキスト。

4.

Halvveis nede i den dype søppeldunken fikk plommebarnet endelig øynene opp “Å nei, skal jeg råtne nå, uten noen gang å ha prøvd å sprette eller kjent noe hardt og blankt?” Og så, blankt klisne brødsmuler og bløtt innpakningspapir, skled han videre ned : to ganger sin egen lengde. Hurraropene hørtes viden om.

ゴミバケツに放り込まれたプラムみたいに小ちゃな子どもは、深い底に落ちている途中で、ようやく目を開けた。その子は思った。「ああ、僕はジャンプしも、硬くてつやつやした光沢のあるものに触れるかもしないまま、このまま腐っていくのかな?」それからべとべとしたパンくずや柔らかな包装紙にまみれ、底へ底へと落ちていった。落下距離は、その子の背の倍はあった。響き渡る叫び声。やった、やったぞ!

私はこのテキストはノルウェー人が描いたユーモア小説だと思っていたのですが、種明かしをされてびっくり! 何とこれは平出隆さんの『胡蝶の戦意のために』の一節を先生がノルウェー語に訳したものだったのです。

オリジナルはこうです。

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ふかい屑物入れの暗がりの中途でスモモの子はようやくにめざめた。「ああ、ぼくは、跳ぶこともなく、硬く光るものも知らずに腐るよ」。それから、濡れた包装紙やパン屑のあいだを、自分二箇分ほど下へずり落ちた。歓声が遠くに聞こえる。

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プラムはオリジナルはスモモ、ゴミバケツは屑物入れでした。ここは舞台が日本かノルウェーかで訳語の選定が変わってくるのは仕方がないのかもしれませんが、その他の差違はどうでしょうか。

先生はどの言語の翻訳者も、理解があいまいなところに限って説明を加えてしまう傾向があるとおっしゃっていて、それは私の訳文にもぴったりと当てはまっていました。例えば plommebarnetはそのまま訳すとオリジナル通り、スモモの子ですが、私はプラムみたいに小ちゃな子どもと訳してしまっていました。またスモモの種と解釈して訳す人もいるでしょう。でも解釈を加えずにスモモの子とそのまま訳せばどちらの解釈も可能です。訳者が解釈を加えることで、読者が想像力を膨らませる余地を奪ってしまうことになることがよく分かりました。またふかい屑物入れの暗がりの中途でというところも私のしてしまったようにゴミバケツに)放り込まれたと説明を加える必要はありませんでした。

響き渡る叫び声。やった、やったぞ!というところHurraropeneがropeneなら叫び声ですが、Hurraという言葉がつくので叫び声では十分ではないと考え、やった、やったぞ! と後ろめたく感じながらも説明を加えてしまっていましたが、歓声(歓びの声)とすればよかったのだな、と気付かされました。この部分、ノルウェー語版でも、日本語版でも、歓声がどんなものなのか、誰が発しているものなのかはっきりと分からないように描かれているそうです。やった、やったぞ! と説明を加えてしまうと、解釈の幅が狭められてしまいます。北欧語の翻訳で最もやっかいなことのひとつは、北欧語にこのような合成語が多いところだと思います。Hurra(hurrah, hooray, cheers)-ropene(shout,cry)は英語だとcheering(歓声)なのに、Hurraとropeneを分けて訳してしまうと、くどい日本語になってしまいます。一語で表せるものは、そのように訳すよう気をつけなくてはなりません。

: to ganger sin egen lengde「落下距離は、その子の背の倍はあった。」としてしまいましたが、日本語版では自分二箇分ほど(下へずり落ちた)となっていて、文章を分ける必要がなかったことも分かりました。

また一人の方がこれをファンタジー、子どもの本のようだとおっしゃっていて、私は平出さんが大人の本の作家であることから、いや、大人の本では、と否定してしまったのですが、後からよく日本語の文章を読み返して、そのようにとらえることもできるし、それはとてもおもしろい解釈だと気付かされました。そうやってこれは大人の本だ、子どもの本だと分け、決めつけ、他人の解釈を否定してしまった自分の浅はかさを深く反省させられました。文学というのは色々な解釈があるから面白いのですよね。北欧では議論する時にEfter min mening(私の意見では)という言葉をよく使うようですが、私にはその言葉が欠けていたのでした。

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またずり落ちたというところは、ノルウェーでもただ落ちるのではなくskledという言葉を使うことで、先生はずり落ちるというニュアンスをしっかりと出していました。私はただ落ちると訳してしまっていました。反省。

日本語で屑物入れと言うのとゴミ箱と言うのと、ゴミバケツと言うのと、くずかごと言うのとでニュアンスが異なるように思えます。søppeldunkenというノルウェー語と屑物入れという日本語はぴたりとは一致しないように思えます。屑物入れと言われると、私は家の中の小型のごみ箱を思い浮かべますし、明治時代など昔の文学に出て来そうなレトロな表現に思えます。でもこれは文化、生活環境が違うので仕方の無いことですし、先生はゴミ箱とのニュアンスの違いはご存知の上で、そのように訳したのでしょう。

先生は日本語のテキストのニュアンスを驚くほど上手につかんで訳していいるように思えました。ご自身の日本語力が高いこともありますが、日本人の方や日本で育った別の翻訳者さんとも翻訳や日本語についてよく話をするそうで、それはとても素晴らしい方法に思いました。

先生は日本語、日本の文化、文学の異質さ、つかみにくさを楽しんでおられて、そこが素敵だと思いました。私達の誤りも笑って受け止めてくださいました(もちろん出版されるとなれば、笑ってはいられないのですが)。その笑顔にどんなに励まされたことか・・・・・・!

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反省点がたくさんあって、もっともっと勉強しなくてはならないと思いました。

今まで英語の翻訳者さんが描いた本を読んで勉強してきたのですが、日本の作品のノルウェー語版を使って勉強するのも手だと思い、早速『センセイの鞄』のノルウェー語版を購入しました。これから少しずつ勉強していきたいです。

 

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ノルウェーではもちろんケースバイケースでしょうが、編集者さんがノルウェー語の訳文を読んで日本語原文を想像して変えてしまうということはあまりせずに、日本語が読めないので原文は分かりえないという考えから、出版社が他の日→ノル翻訳者にお金を払って、訳文のチェックを依頼したりするというお話を聞いたことがありました。でもそれは日本ではなかなか聞かないケースです。ノルウェーは世界で最も翻訳者の自由が守られている国のひとつなのかもしれません。翻訳者の自由、決定権が守られているからこそ、原文であいまいに書かれたところをあいまいなままに残すことができるのかもしれません。

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私は本を読むのが大好きなので、勉強会の後の懇親会で先生と日本文学の話をしたくてたまりませんでした。ノルウェー語に訳されている川上未映子さんや金原ひとみさんの作品は大好きですし、伊藤比呂美さんなども『今日』の翻訳などで素晴らしい文章を描く方だということは存じていました。

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でも先生の口から平出隆さんというお名前が出てくるのを聞いた私は、目を白黒させるしかありませんでした。不勉強で恥ずかしいのですが、『胡蝶の戦意のために』のタイトルは聞いたことがあっても、読んだことはなかったからです。amazonでこの本を買おうと思って調べてみましたが、残念ながら絶版していましたし、私の暮らす町の図書館にこの作品は置いていませんでした。日本での評価にとらわれず、そういう作家さんの素晴らしさを見ぬき、作品の味わいをそのままノルウェー語に再現している先生のような訳者に、私もなりたいです。

平出さんについてのノルウェー語の記事

https://www.nrk.no/kultur/bok/seks-internasjonale-debutanter-med-romaner-pa-norsk-1.12804336

https://www.nrk.no/kultur/bok/japanerne-kommer_-1.10919914

https://yondayonda.wordpress.com/?s=hiraide

他の日本の作家さんにも、海外で評価されるポテンシャルを持った方がいるかもしれません。村上春樹さんが、自ら海外進出を試みたように、海外を目指す作家さんがこれからさらに増えていけば面白い、と思いました。

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私が最近訳した『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』のイルセ・サンさんも自費出版で出した作品を、自ら海外へ紹介していったとてつもないバイタリティに溢れる作者です(宣伝ばかりで、すみません)。

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懇親会では、他の参加者の方達から辞書のお話や、北欧の児童演劇のお話などをうかがうことができ、とても楽しい時間を過ごすことができました。またノルウェー語からの直接訳の出版が決まった方もいるようで、とても嬉しい気持ちになりました。こんな風に皆でわいわい楽しくお話したりして、協力しながら活動できたらどんなにいいかと思いました。皆さん私より年上で先生と呼ばれる方達ばかりで、私も混ぜてもらっていいのか、初め気後れしていましたが、本当に気取らず気さくに話してくださって夢の中にいるような気分になりました。ありがとうございました。北欧語の翻訳に取り組んでいる他の方達とも一緒に勉強できる機会が今後あればとても嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもに本を手渡す人(パンダ金魚とアクティブラーニング/いいおかおと子育て支援)

1.パンダ金魚とアクティブラーニング

日本の学校の授業は受け身ばかりで、子ども達が自ら考え、発言する参加型の学習、アクティブラーニングがあまり行われていないと言われがちです。私も自分の子どもの頃の記憶をもとに、そう考えていました。でも小学校3年生の娘の小学校の授業参観で、時代の流れを感じさせられました。

科目は国語。先生は『消えたパンダ金魚』という奇妙なタイトルが印刷されたプリントを子ども達に配りました。そして黒板に校長先生、ねこやまさん、うまかわさんをはじめとした個性的な登場人物のイラストを張り、それぞれの特徴を書きだします。子ども達と保護者が興味津々、見つめます。

すると先生が『消えたパンダ金魚』という物語を勢いよくドラマッチックに読み上げ始めました。小学校を舞台にしたパンダ金魚という珍しい金魚をめぐるミステリです。

消えたパンダ金魚を盗んだ犯人が分かる前までを先生が読み終わると、子ども達はグループに分かれ、誰が犯人か、そしてなぜそう思うのかを話しあいはじめました。大人しい性格の娘も犯人は「うまかわさんだよ」、「ううん、ねこやまさんだよ、だって・・・・・・」などと他の子達と意見を闘わせています。

そして途中先生が「コンパクトが鍵になっています」、「このコンパクトを使って暗号を読んでみて下さい」、「暗号を鏡で映してごらん・・・・・・」などと、子ども達の推理を促します。

各班、予想した犯人を発表します。1班発表する度に、子ども達は「違うよ、だって・・・・・・」などと、活発に発言します。

先生が、物語の最後の部分を読み上げると、犯人とその動機、犯行の手口、なぜそう推理できるのか根拠がはっきりしました。子ども達はなるほど、と最後まで目を輝かせていました。

子ども達が互いに協力し、異なる意見をぶつけ、すりあわせ、考えを生み出す様を目の当たりにした私は、驚きました。

そして授業の終わりに先生が、『消えたパンダ金魚』は仮説社から出ている朝の連続小説―毎日5分の読みがたりに収められている短編で、作者の杉山亮さんは学級文庫にある『もしかしたら名探偵』のシリーズを書いている杉山さんだと言って、子ども達に本を見せました。
  

参考1:『自分で考えよう: 世界を知るための哲学入門http://reikohidani.net/2473/

参考2:Benesse教育情報サイト「アクティブ・ラーニング」、実は既に行われている?

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2.子育て支援と絵本

子育て支援センターで、読み聞かせグループの方達の読み聞かせを聞き、感動しました。

0歳~3歳ぐらいの子ども達がママ達の膝にのせられ、興味津々見つめる中、グループの方達はおもちゃの鍋と食べもの、包丁、まな板を使って、カレーライスの歌を歌いながら、カレーをつくる真似をしました。ママ達が歌に合わせて子ども達の体を優しく揺らします。

次にグループの人が『いいおかお (松谷みよ子 あかちゃんの本)』(童心社)の絵本を読み聞かせた後、支援センターの部屋の端から真ん中に移動しながら、

「ふうちゃんが ひとりで いいおかおを していました」と言うと、もう1人が端から真ん中に移動しながら、「そこへ いいおかお みせてって ねこがきました」と言い、また次の人が移動し・・・・・・と劇のように物語を展開させていきます。

そしてラストの「ビスケットをくれました。ああ おいしい おいしい おいしいはどこ」でほっこり場が和んだ後、ビスケットのおもちゃをポシェットから出してきて、子ども達一人一人に、おいしい、おいしいと食べる真似をさせました。

とっても楽しい読み聞かせでした。

その後、グループの1人が、最近のお母さんはどんな絵本を読んでいるのか、とママ達に聞き、みんなで絵本の話で盛り上がりました。読み聞かせグループの方が、昔からある定番の絵本は知っているけれど、新しい絵本のことはあまり知らなくて、もっと知りたいとおっしゃっていました。こういう人達に新しい絵本を紹介するセミナーや会があればいいのにな、と思うとともに、ノルウェーの読書推進プロジェクト、『読書の種』のことを思い出しました。

http://reikohidani.net/2344/

43.鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

『鈍感な世界に生きる 敏感な人たち』、イルセ・サン、ディスカバートゥエンティワン

  

アーロン版HSPチェックリスト、イルセ・サン版HSPチェックリストがこのサイトに掲載されているようです。チェックしてみましょう。

https://highlysensitiveperson.jimdo.com/%EF%BD%88%EF%BD%93%EF%BD%90%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88/

 

著者が運営するHSP向けのコミュニティ、英語の勉強にもなります。誰でも参加できるようです。

https://www.facebook.com/highlysensitivepeopleIlseSand/?fref=ts

 

42.自分で考えよう: 世界を知るための哲学入門

自分で考えよう: 世界を知るための哲学入門』ペーテル・エクベリ、晶文社

 

(訳者あとがき)*出版社から許可がとれたので公開させてください。

本書『自分で考えよう』(原題:Tänk Själv)は、ソクラテスの無知の知、デカルトの方法的懐疑、アウグスティヌスの時間論、カントらによる認識論といった西洋哲学の基本的考えが、子ども向けの分かりやすい言葉で示された哲学入門書です。

作者のペーテル・エクベリは、1972年、スウェーデン生まれ。ヨーテボリ大学の大学院博士課程を出ています。デカルトが哲学だけでなく、科学や天文学、数学などにもとりくんだように、彼も哲学だけでなく、天文学、物理学、神経科学、思想史も学びました。本作で哲学の枠にとらわれず、脳科学など他の学問分野との関わりにも触れているのはそのためでしょう。特に空想や、頭にイメージを浮かべる能力に強い関心を持っているそうで、本作でも、ものごとを思い浮かべる時、頭のなかで何が起きているのか、思考はどこにあるのか、といったことに多くのページを割いています。

本作はエクベリのデビュー作で、発表されたのは2009年。同年、スウェーデン作家協会のスラングベッラン新人賞にノミネートされ、ドイツ語、デンマーク語、ロシア語、韓国語、ポーランド語などに翻訳されました。以後、ロボットや人工知能、宇宙についての子ども向けのノンフィクションやSFなどを執筆しています。そして2016年には本書の続編『壮大に考えよう』(Tänk Stort!)で、子ども向けの優れたノンフィクション作品に与えられるカール・フォン・リンネ賞にノミネートされました。

本作のイラストを手がけたのは、『フィンドゥスの誕生日』(ワールドライブラリー)をはじめとするフィンドゥスとペットソンのシリーズや、『め牛のママ・ムー (世界傑作絵本シリーズ)』(福音館書店)などで有名なスヴェン・ノードクヴィスト。スウェーデンの新聞には本作に出てくるような風刺画がよく載っていますが、高福祉高負担のスウェーデンでは、納めた税金を国がどう有効に使うかなどを監視したり、批判したりすることで、権力の肥大化と政治腐敗を食い止める必要があるのでしょう。お隣のデンマークのユランス・ポステン誌やフランスのシャルリー・エブド紙でムハンマドを皮肉る風刺画が掲載され、放火事件や襲撃事件に発展した例もありますが、ノードクヴィストの風刺画は、批判の矛先が他国の文化、宗教ではなく自国に向けられていて、あたたかみと心地よさを失わないユーモアで、作品を愉快に盛り上げてくれています。

この本が生まれたスウェーデンは、クリーン・エネルギー、教育機会の平等、手厚い介護や年金制度、男女平等(日本の女性運動に影響を及ぼした思想家のエレン・ケイはスウェーデン出身)、オンブズマン制度などのモデル国として日本で注目されてきました。また子どもに対する暴力が法律で禁止されていたり、1970年代に選挙権をすでに18歳まで引き下げ、さらに若者の政治への関心の高さゆえ現在16歳への引き下げまでもが検討されていたりと、子どもの権利が重視されています。人口約960万人と非常に小さな国ですが、IKEA、H&M、エリクソン、Spotify、VOLVOといった企業の進出も著しいです。

スウェーデンがこのようなモデル国となりえた背景には、イギリスやドイツなど他国の思想に影響を受けつつも、議論を重ねることで独自の思想を生み出してきたことがあるように思えます。スウェーデンの学校では、異なる考えを尊重し、理由や根拠を示しながら議論をし、考えを発展させる術を学ぶそうです。論理的にユーモアを忘れず楽しみながらグループで議論する様子は、学校や家庭、職場などで当たり前に見られる光景のようです。

スウェーデンはリンドグレーンをはじめとする優れた児童書作家を多く輩出していることでも知られていますし、文化的に緊密な関係にあるノルウェーから生まれた、哲学を題材にした児童書『ソフィーの世界』は世界的な大ヒットになりました。北欧の児童書作家は、相手が子どもであっても心を開いて、本音で語りかけます。この本の作者も、「社会のリーダーが公正と善という言葉の意味を理解していなかったら、どうなる?」「ある文化で正しいとされていることが、ほかの文化で“おかしい”、“まちがっている”と言われることがある」などストレートな問いを、子どもの読者にさらりと投げかけてみせます。また、女性が歴史上、男性とまったくおなじ教育の機会を得られなかったことをも包み隠さず書いた上で、教育を重視し、女性が男性とおなじチャンスを得られる社会をつくるために奮闘してきた人達のことにも言及しています。

現代の日本社会には一筋縄ではいかない難題が山積していて、それらの打開策を見出すための思考法が求められています。また相次ぐテロや拉致・人質事件、戦争、紛争などを目の当たりにし、世界のものの考え方、論理、様々な価値観を知る必要を感じている人も多いでしょう。

他国のやり方をただまねするだけでは日本の問題を解決できません。わたしたちが、自分で考える必要があるのです。その考え方のひとつの例がこの本では示されています。

(中高生も楽しめるディベート番組一覧)

Abema TV千原ジュニアのキング・オブ・ディべート

Abema TV ウーマンラッシュアワー村本大輔の土曜The NIGHT

TBS好きか嫌いか言う時間

NHK Rの法則

 

(本文より)

知らない、ということを知る(無知の知)

賢い人とは、多くのことを知り、理解している人だと言われている。でも自分たちがたいして知らないということを知ることが、真実に近づく第一歩になる。そう考えたのは、ソクラテスだった。
当時、ソクラテスを支持し、かれの話に耳をかたむけ、かれと対話した若者が大勢いた。ソクラテスは運動場にしょっちゅうあらわれては、「体だけでなく魂や思考もきたえるべきだ」ととなえた。
こんなソクラテスだから、「ソクラテス以上の賢者はいない」というアポロン神殿のお告げがあったときいて、びっくりしたのも無理はない。
ソクラテスは自分が賢いなんて、さらさら思っていなかった。「自分はただ、さまざまな問いを立ててきただけだ」と思っていたんだ!
ソクラテスはそのお告げがまちがっているとしめしたくて、政治家や作家、職人といったさまざまな分野の知者をたずね歩いた。
ところがそれらの人たちと言葉をかわしたあと、かれがいだいた感想はこんなものだった。「わたしたちはだれ1人として、真に価値あることを知らないようだ。わたしは本当に価値のあることはなにも知らないし、自分が知っているとも思わない。一方、あの人たちは知らないのに、知っていると思っている」
ソクラテスは気がついた。「問いつづけることについては、自分がいちばん知っているのかもしれない」と。そこでかれは言った。「わたしは自分が知らないということを、知っている」
ソクラテスはさまざまな土地を訪れたことで、多くを知ったとは考えなかった。それどころか、「自分は実際なんにも知らない」ってことを知ったんだ。

(本文より2 喧嘩せずに議論するには?)

哲学の議論をとおして、人は真実をさぐろうとする。ソクラテスは好奇心が強く、議論や討論を愛した。問いを立て、それに答えることで、不変の答えや真実にたどり着けると考えた。真実にたどり着くには、忍耐力と寛容さと正直さがひつようだ。
哲学者は理性的な議論を積極的に行う。また哲学者にとっての勝者は、最良の議論だ。相手の提案のほうが正しければ、自らの考えを変えることもありうる。哲学者はあたらしいものごとを学びたいという意欲にあふれている。またある問いに対し相手の論のほうが筋が通っていれば、よろこんで自分の意見を変えるだろう。
哲学者にとってたいせつなのは、「だれが正しいか」じゃない。「なにが正しいか」だ! よい哲学者は自分の考えを批判されても怒らない。また哲学的議論をするとき、うそをつかず、本当のことを言う。
つぎにきみが友だちとけんかすることがあれば、いまのことを思いだしてみるといいかもしれないね。

 

参考:TEDより クリティカル・シンキングを養うための5つのヒント

物事を深く考え、情報化社会の中で嘘の情報に惑わされず、何が正しいか判断をし、選択という私達に与えられた権利を存分に行使するためには、どうしたらいいのだろう? グローバル化社会の中で、文化の異なる人達とも対話し、互いの価値観を認め合うには? 私達ひとりひとりが理性を働かせ、選択することで、この欺瞞に満ちた世界を理性的で公正な場所に少しずつ変えられるかもしれない。

(類書)

『10代からの哲学図鑑』マーカス ウィークス 、スティーブン ロー、 日暮 雅通、三省堂

哲学は物事の本質を問うもの。哲学に出てくる言葉の定義には、各国語で少しずつずれがあって、翻訳すると、ひずみが生じやすいのかもしれない。しかしこの本の訳はそんな困難さを感じさせない見事なものだった。子ども向けの哲学の入門書は、かみくだきすぎていたり、論が局所的だったり、散漫になっていたりして、結局何も心に残らないものと、用語の説明に終始した小難しいものとで、2局化しているような気がするが、この本では西洋哲学が包括的に説明されており、哲学の用語解説に終始することなく、哲学の世界で繰り返し問われてきた問い、疑問が本質的に何であるのか、哲学の考え方を示すことに力点がおかれている。地味だけれど、かなりの良書。手元に置いておいて関心のある事項、調べたい事項が出てきたらその都度、調べるのによいだろう。

 

『はじめての哲学』竹田 青嗣 、PHP研究所

哲学とは何かや、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、アウグスティヌスなど各哲学者の考えが、哲学者、竹田青嗣さんの言葉で分かりやすく紹介されている。

 

『よいこととわるいことって、なに?』オスカー・ブルニフィエ 、 クレマン・ドゥヴォー 、 重松 清、 西宮 かおり 、朝日出版社

「何でどろぼうしちゃいけないの?」、「思ったことを何でも口にしていいの?」、「こまっている人がいたら助けてあげる?」などの問いへの答えが子どもの読者と一緒に考える形で示されている。

『いま世界の哲学者が考えていること』岡本 裕一朗、ダイヤモンド社

哲学は過去のものではなく、現在進行形のものであることが分かる今最も熱いノンフィクションの1つ。

『人間さまお断り 人工知能時代の経済と労働の手引き』ジェリー・カプラン、安原 和見、三省堂

『自分で考えよう』の著者の専門の1つ、人工知能とこれからの社会のあり方が示された作品。YA世代も大人も楽しめる。

 

『考える練習をしよう』マリリン・バーンズ 、マーサ・ウェストン、 左京 久代、晶文社

子ども向けの哲学入門の定番書。

『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』原田 まりる、ダイヤモンド社

哲学を現代の若い人達に親しみ易い言葉で物語形式で描いた作品。哲学は今を生きる私達にも必要なもの。現代の日本の若い人向け、ソフィーの世界と呼べるか。

『ソフィーの世界』ヨースタイン ゴルデル、 池田 香代子、NHK出版

同じく哲学を物語形式で描いた作品。ゴルデルはスウェーデンの隣国ノルウェーの作家。世界的な大ヒットとなった。

 

『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ 、花本 知子、亜紀書房

ノルウェーの読書推進プロジェクト『読書の種』(Lesefrø)、『新・読書の種』(Ny-Lesefrø)

『読書の種』、(Lesefrø)『新・読書の種』(Ny-Lesefrø)とは?
ノルウェーで2008年~2010年にスタバンゲル大学読書研究センターの協力で、読書推進の国家プロジェクト『読書の種』(Lesefrø)が行われた。またオスロのDeichmanske図書館とオスロ南部、Søndre Nordstrand地域の保育事業局が2012年に『新・読書の種』(Ny-Lesefrø)をスタートさせたり、オスロ東部Stovner地域でも『読書の種』事業が行われたり、ベルゲンやトルガでも同様のプロジェクトが行われたり(https://www.bergen.kommune.no/aktuelt/tema/omradesatsing/9398/article-127115)と広がりを見せている。

Søndre Nordstrand地域の『新・読書の種』プロジェクト・サイト:http://lesefro.blogspot.jp/search/label/nyeLESEFR%C3%98%20-%20Hva%20er%20det%3F

ビデオはDeichmanske図書館とオスロ東部Stovner地域の『読書の種』事業の様子

上のビデオでは保育士がこの図書館の本を保育時間に子ども達に読み聞かせたり、子どもが自分で読んだり、保護者が貸りて、家庭での読み聞かせに用いたりすることができるとされている。

またipadの貸し出しも行っている。

Deichmanske図書館は保育所で本についての情報提供も行い、また半年に一度、本の入れ換えを行う(入れ換え頻度は各地域、プロジェクトにより異なるようだ)。

またブック・フェスティバルという子ども向けのイベント(上の動画03:38~ 歌を歌ったり、読み聞かせを行ったりするイベント)や

保育所関係者向けのセミナーも行っている(動画04:59~)。

また小学校入学を控えた子ども達と保護者を図書館に招待し、本についての情報や図書館の利用法などを案内するイベントも開催している(動画05:48~)。

公共図書館と保育所が連携し、子どもの読書推進活動を行うと同時に、保護者や保育士にも読書の素晴らしさ、重要性を伝えるのはとても大切なことだ。

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☆『文化を育むノルウェーの図書館』(新評論)によると、ノルウェーではこのプロジェクトに限らず、公共図書館による保育所への図書サービスに力を入れているよう。またほとんどの図書館の司書が、保育園を巡回し、定期的に図書を配本しているそうだ。

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日本でも以下のような事業があるよう。

「子供の好きな本を届けます」図書館が幼稚園、保育園に貸出サービス開始 大阪・大東市 http://www.sankei.com/west/news/140424/wst1404240038-n1.html

しらさわ夢図書館ドリーム文庫 http://yume-lib.city.motomiya.lg.jp/renkeijigyou.html

講談社本とあそぼう全国訪問おはなし隊 http://www.kodansha.co.jp/ohanashi/

 

『ウッラとベンディック町をつくる』(Ulla & Bendik bygger by)、オーシル・カンスタ・ヨンセン(Åshild Kanstad Johnsen)

『ウッラとベンディック町をつくる』(Ulla og Bendik bygger by)、オーシル・カンスタ・ヨンセン(Åshild Kanstad Johnsen)、Gyldendal Norsk社、 2016年、40ページ
ullaogbendik
町づくりを子どもの視点からのびやかにまた鋭く描いた絵本です。ノルウェーの新聞Dagbladet紙のレビューで6つ☆を獲得しています。
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(あらすじ)
 遠い町から引っ越してきたウッラいう女の子が、集合住宅の近くのベンチで
ジャングルについての本を読んでいた男の子ベンディックに話しかけました。
「わたしはジャングルからひっこしてきたのよ」
 けげんそうな顔をするベンディックウッラはこう言いなおします
「ジャングルみたいな町っていったほうがいいかしら。木の上に家があって、
学校にいくきに木のみきをつたっておりたり、吊り橋をわたったりしたわ。
ラやライオンもいて、いつおそわれるかわからないから、車は空をぶの」
ベンディックはそんなわけない、本をよみつづけました。
たいくつしたウッラベンディックの本をじるいいました。
「この町ってつまらない。車やショッピングセンター、駐車場、
マンション、どれもこれも四角くて灰色じゃない!」
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出典(Kilder):http://www.barnebokkritikk.no/pa-gjenoppdagelsesferd-i-voksenverdenen/#.VwrmZDCLQ9Z
「この世界にはいろいろな形や色があるのに!」
ウッラはさけびました。
「そうだ、いいこおもいついた。じぶんたちで町をつくりかえればいいのよ!」ウッラ
「子どもにそんなこできるわけないだろ」ベンディック
「どうしてよ? 大人より子どものほうがずっおもしろいこをかんがえつくじゃないの。
子どもが町をつくるべきよ!」
「あ、そう。がんばって」ベンディックは家にかえろうしました。
ウッラがあをおいかけます。
 ベンディックのおうさんはウッラにもゆうはんをだしてくれました。
ウッラは魚の上につけあわせのブロッコリーじゃがいも、グリンピース、
にんじんをおく、「公園みたいでしょ」いいました。
するお父さんが「食べものであそんじゃだめだよ!」注意しました。
 そのあベンディックウッラを子ども部屋にあんないしました。
机の上にはスケッチブックがありました。
 スケッチブックにはベンディックのかいた町の絵がありました。
「物語でよんだ町を絵にするのがすきなんだ」ベンディック
するウッラがさけびました。「わたし、こういう町にすみたい!
木のぼりしたり、ボーをこいだり、坂をのぼったり、おもいっきり自転車をはしらせたりできるもの!」
「町づくりをしている人たちに、はなしてみようか」ベンディック
 ふたりはどんな町にすみたいか、はなしあいました。
「四角いだけじゃなくて、いろいろな形のたてものがあったほうがいいわ」
「小高くなっていたり、かくれたりできる場所があってもおもしろいよね。
噴水もほしいな!」
「それに高い木も。ツリーハウスや橋はどう?」
「車専用のレールもつくる?」
「町の中に遊園地もあったら楽しいね」
「町のあちこちに無料のジュース・サーバーをおきましょうよ」
「でもそうしたら歯医者さんがもっひつようになるよ」
「地下にも秘密の部屋や洞窟をつくりましょうよ。秘密の階段や
エスカレーターも」
 つぎの日、ベンディックが石のコレクションであそんでいる
ウッラがあらわれました。ごみ捨て場からひろってきたガラクタをつかって
町の模型をつくったのだそうです。
「それはぼくらの町じゃない。きみの町だ」
ベンディックウッラがかってにひりで模型をつくったこ
きにいりませんでした。
「でもきのうはなしあったアイディアをもにつくったのよ」
 その時ウッラはバランスをくずして模型をおしてしまいました。
ふたりはちらばったがらくたをかたづけながら、もういちど
町の模型をつくりはじめました。
 ペンキで色をぬったり、ボンドでくっつけたり。
 次の日、ふたりは市役所の担当者をたずねました。
 模型をみせ、プレゼンテーションをします。
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出典(Kilder):http://www.dagbladet.no/2016/02/06/kultur/pluss/ekstra/litteraturanmeldelser/anmeldelser/42994575/
 担当者は「すばらしいアイディアだけど、子どもが町をつくるなんて
きいたこはないわ。町づくりにはいろいろな法律やきまりがあるのよ」いいました。
「じゃあその法律っていうのを今しらべてください!」ウッラは叫びました。
担当者は子どもが町をつくってはいけないって決まりがないこきがつきました。
「いままできみたちみたいなこをいってきた人はいないよ」
「それは皆カーテンや窓をしめきって、じぶんたちのくらす町に無関心だからでしょ。
町がこんなに灰色でどんよりしているに、どうして大人はきがつかないの?」
 担当者ははっして、自分のくらしをふりかえってみました。
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出典(Kilder):http://www.barnebokkritikk.no/pa-gjenoppdagelsesferd-i-voksenverdenen/#.VwrmZDCLQ9Z
 仕事が終わるエレベーターで市役所の地下の駐車場にいき、車にのりこむ
子ども達をむかえにいきます。スーパーでかいものをおえる
マンションの地下の駐車場に車をめます。それからエレベーターで部屋にいき、夕飯をつくって
食べ、テレビをみて、ねる。窓の外をながめるこなど、たしかにほんどありません。
 担当者はいいました。
「今度港の近くの一角を再開発する予定なんだ。
古いお店がみな閉店してしまってすたれてしまっているからね。
町の人たちにきみたちのアイディアをつたえてみるよ」
「やった、約束だよ!」
ウッラベンディックびあがってよろこびました。
(看板の文字)
ウッラベンディック工事中
1年後
ウッラとベンディックの町ができあがりました!
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出典(Kilder):http://www.litthusbergen.no/program/2016/05/aashild-bygger-by/
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(この本の素晴らしいところ)

 大人になると時に思ったことを率直に言えず口をつぐまざるをえないことがあります。この作品では、子どもが主人公だからこそ大人が言えないこと、忘れてしまったことを鋭くえぐり出せているように思えます。ウッラとベンディックは市役所の町づくりの担当者に、大人たちがカーテンや窓をしめきって、じぶんたちのくらす町に無関心で、町が灰色でどんよりしていることに気がつかないんじゃないかと言います。その言葉を聞いた担当者は、仕事と家を往復するだけで町を眺める心のゆとりがない自分たちの生活を振り返り、はっとさせられるのです。

 町づくりをテーマにした絵本には、他にこんな作品があります。
ぼくのまちをつくろう! ぼくのまちをつくろう!
作:スギヤマ カナヨ出版社:理論社絵本ナビ
 http://bhjinbocho.exblog.jp/23700751/(ブックハウス神保町のホームページより)
http://www.rironsha.com/?mode=f58(理論社ホームぺージより)
 ワークショップも行われているようで、とても楽しそうです。
 私もこの本を小学校の読み聞かせに使ったことがあります。オーシルさんの作品が現実と夢の中間だとすれば、この作品は子どもの夢をファンタジックに描いた作品と言えるでしょう。ただ1つだけ難しいと思ったのは、建物の形がどれも四角くて一見しただけでは、どの絵がどの建物を指しているか分からないところです。かなり小さな絵本で、建物1つ1つが小さいので、教室での読み聞かせに使うのは難しい面があるように感じました。家で読んだり、ワークショップに使うには最適の作品なのでしょう。
 一方、オーシルさんの作品では、建物の色も形も斬新で、どの絵が何の建物をあらわしているのか一目瞭然ですので、読み聞かせにも使いやすいと思います。もちろんワークショップもできそうです。
 またこんな作品もあります。
ぼくたちのまちづくり 4 楽しいまちなみをつくる ぼくたちのまちづくり 4 楽しいまちなみをつくる
出版社:岩波書店絵本ナビ
  町づくり計画コンテストに小学校の子ども達が参加する話なのですが、この作品は絵本というより読み物に近く、読み聞かせ用につくられたわけではありません。また今回の作品以上に現実的に町づくりが描かれています。
 オーシルさんの作品では、市役所に直談判に行くという現実的な手順が踏まれている割には、2人の意見があっさり通ってしまうところが、少し不思議に思えました。というのも私も娘が保育所に通っている時に保護者の会から年に一度市に提出する要望書に、保育所の門が重くて両手で開けなくてはならず、その間に子どもが道路に飛び出してしまうので、門を軽いものに変えるか、車が侵入しないようボラードをつけてほしいと書いた際、要望が通るまでに時間がかかったからです。
 ただ現実をそのまま絵本の世界で描く、つまらないものになってしまうのかもしれません。
 ウッラとベンディックがつくったのは、子どもたちが遊びやすい町でもあります。今、日本では公園でボール遊びをしてはいけないとか、様々な規制があり、子ども達の遊び場が減っています。
http://ure.pia.co.jp/articles/-/37133(“遊べない子”が増えた!? 公園の「禁止事項」増加が子どもの心に与える影響)
http://women.benesse.ne.jp/akuiku/riyu/index4.html( 子どもの環境変化と遊びの重要性)
https://www.posa.or.jp/outline/pdf/tokyo04-info141203.pdf(まちづくりからみた遊び環境の実態、課題)
 大人が一生懸命に遊び方を教えずとも、子どもは何でも遊びに変えてしまう遊びの天才です。その子ども達が今、遊ばなくなっている(もちろんそれでも遊んでいる子は一杯います)というのは、私達大人が作り出した社会環境により彼らの行動が相当に制限されているということなのではないでしょうか。
 私の娘の学校では保護者会の時間に、地域の方たちや保護者がボランティアで子ども達に小学校の体育館でボール遊びやトランポリンなどをさせる活動が行われていていて、うちの娘もその時間をとても楽しみにしています。とてもありがたいです。
 ただ子どもが大人の手を借りずとも毎日、安全に遊べる環境があったらどんなにいいかと願う気持ちもあります。
参考:http://reikohidani.net/1456/(ミンダナオの子ども達について、松居友さんのお話)