2016年の3月にノルウェー大使館であったノルウェー文学セミナー(申し込みした人は誰でも参加できる会でした)で知り合うことができたノルウェー語翻訳者さんから思いがけずお声がけいただき、翻訳勉強会に参加させていただきました。
講師はノルウェー人の日本語翻訳者さん。村上春樹さんの作品などを翻訳されている方です。
テキストは4つ。どれも1ページ程度のとても短いもので、タイトル、作者は伏せられていました。
1つ目のテキストは鳥肌が立つほど面白く、技巧に満ちたもので、私は文学史にその名をとどろかす文豪が描いたものだろうと予想していました。
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1.
あらぬ考え
私の家に男が押し入り、ナイフで家族を襲った。私が恐怖による無気力状態からようやく脱し、飛びかかった時には、その狂った侵入者はすでに娘の胸を刺し、さらに末の子どもを――まだ乳飲み子であるかわいい坊やの喉を切り裂いていた。男は私を虫けらのように追い払った。恐怖、困惑、そうだ、復讐心に狂った私は背中を一突きしようとキッチンの引き出しから、急いでナイフを取り出した。ところが刺そうとする度、腕は動かなくなってしまうのだった。やがて三人の子どもの血で足を滑らせた私は、床の高さから、おぞましい光景を眺めた。その視点は、殺人者のそれだった。私は気付いた。その男は、知らぬ者ではない。子ども達も、わが子ではない。私自身もその男と同じく、人間ではないのだと。私は殺人者の頭の中の、あらぬ考えだった。今、私は男を制止できずに、叫ぶ妻を切りつけている。
En uønsket tanke
En mann brøt seg inn i huset mitt og angrep familien min med kniv. Han hadde alt rukket å stikke datteren vår i brystet og å skjære over halsen på vår yngste, den kjære gutten min, bare spedbarnet, da jeg endelig fikk rykket med løs fra fryktens apati og kastet meg over den gale inntrengeren. Han føyset meg vekk som en liten mygg, en knott. Skrekkslagen og forundret, ja, gal av hevngjerrighet grep jeg straks en kniv fra kjøkkenskuffen for å stikke ham i ryggen, men det var som om armene mine sovnet hver gang jeg forsøkte å stikke. Snart skled jeg i blodet fra de tre barna mine, og der nede fra gulvet så jeg plutselig den grusomme scenen fra morderens øyne, og jeg forstod at han slettes ikke var en fremmed, at barna ikke var mine egne og at jeg selv ikke var et menneske som ham, Jeg var en uønsket tanke i morderens hode. Ute av stand til å stoppe ham, stod jeg nå og hugde løs på den skrikende hustruen.
先生が私達参加者に、「この文章を読んで、最初にあれ、おかしいな(この文章は語り手を被害者かと最初思わせておいて、途中で実は語り手は殺人者であるということが分かるというトリッキーなものです)と違和感を感じるのはどこですか?」と質問しました。私は青字のところだと思っていたのですが、先生は赤字のかわいい坊や(den kjære gutten min)というところだとおっしゃいました。ノルウェー語だとここでkjæreというのがものすごく違和感があって気持ちが悪いのだそうです。なので「愛しい私の男の子」ではなく、参加者の1人の方がしていたように、「かわいい坊や」とするのが今のところ一番いいのかな、と思っているのですが、それで十分なのかは、いまだに分かりません。そしてもし冒頭の時点で違和感がすでに出ているのであれば、青い部分はもっと原文に寄り添わせ、無為に違和感を強調せずに、「床の高さから、殺人者の視点からそのおぞましい場面を眺めた。」とするので十分かもしれませんが、日本語としてどちらがしっくりくるのか、これもまだ自分の中で答えが出ていません。こんな風にその作品で何が肝なのかをつかむことが、翻訳では大事なんだそうです。
先生は緑のところ、Skrekkslagen og forundret, ja, gal av hevngjerrighetを「恐怖、困惑――そう、復讐心だ。復讐心に狂い」などという風にリズムを変えずに、原文のリズムを残して一続きに訳した方がよいのでは、とおっしゃいました。本当にその通りだと思いました。「恐怖、困惑、そうだ、復讐心に狂った」が今のところ、一番よいのでは、と思うのですが、もっとよい訳があればどなたか教えていただけると嬉しいです。
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そして楽しい種明かし。このテキストを描いたのは、何と1978年生まれとまだ若い新人作家のJoakim Kjørsvikさん。”Åpenbart ingen nabo”(明らかに隣人はいない)という短編集の一篇だと明かされました。
家に帰ってから早速、ネット書店で電子版を購入しました。最高にクールで才能溢れる作家さんだと思いました。
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2つ目のテキストはHanne Ørstavikの”Hakk”(Cut)という長編小説の冒頭部分、3つ目はArne Lygreさんの”Tid inne”(In time)という短編集だということも明かされました。
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そして面白かったのが4つ目のテキスト。
4.
Halvveis nede i den dype søppeldunken fikk plommebarnet endelig øynene opp “Å nei, skal jeg råtne nå, uten noen gang å ha prøvd å sprette eller kjent noe hardt og blankt?” Og så, blankt klisne brødsmuler og bløtt innpakningspapir, skled han videre ned : to ganger sin egen lengde. Hurraropene hørtes viden om.
ゴミバケツに放り込まれたプラムみたいに小ちゃな子どもは、深い底に落ちている途中で、ようやく目を開けた。その子は思った。「ああ、僕はジャンプしも、硬くてつやつやした光沢のあるものに触れるかもしないまま、このまま腐っていくのかな?」それからべとべとしたパンくずや柔らかな包装紙にまみれ、底へ底へと落ちていった。落下距離は、その子の背の倍はあった。響き渡る叫び声。やった、やったぞ!
私はこのテキストはノルウェー人が描いたユーモア小説だと思っていたのですが、種明かしをされてびっくり! 何とこれは平出隆さんの『胡蝶の戦意のために』の一節を先生がノルウェー語に訳したものだったのです。
オリジナルはこうです。
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ふかい屑物入れの暗がりの中途で、スモモの子はようやくにめざめた。「ああ、ぼくは、跳ぶこともなく、硬く光るものも知らずに腐るよ」。それから、濡れた包装紙やパン屑のあいだを、自分二箇分ほど下へずり落ちた。歓声が遠くに聞こえる。
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プラムはオリジナルはスモモ、ゴミバケツは屑物入れでした。ここは舞台が日本かノルウェーかで訳語の選定が変わってくるのは仕方がないのかもしれませんが、その他の差違はどうでしょうか。
先生はどの言語の翻訳者も、理解があいまいなところに限って説明を加えてしまう傾向があるとおっしゃっていて、それは私の訳文にもぴったりと当てはまっていました。例えば plommebarnetはそのまま訳すとオリジナル通り、スモモの子ですが、私はプラムみたいに小ちゃな子どもと訳してしまっていました。またスモモの種と解釈して訳す人もいるでしょう。でも解釈を加えずにスモモの子とそのまま訳せばどちらの解釈も可能です。訳者が解釈を加えることで、読者が想像力を膨らませる余地を奪ってしまうことになることがよく分かりました。またふかい屑物入れの暗がりの中途でというところも私のしてしまったように(ゴミバケツに)放り込まれたと説明を加える必要はありませんでした。
響き渡る叫び声。やった、やったぞ!というところHurraropeneがropeneなら叫び声ですが、Hurraという言葉がつくので叫び声では十分ではないと考え、やった、やったぞ! と後ろめたく感じながらも説明を加えてしまっていましたが、歓声(歓びの声)とすればよかったのだな、と気付かされました。この部分、ノルウェー語版でも、日本語版でも、歓声がどんなものなのか、誰が発しているものなのかはっきりと分からないように描かれているそうです。やった、やったぞ! と説明を加えてしまうと、解釈の幅が狭められてしまいます。北欧語の翻訳で最もやっかいなことのひとつは、北欧語にこのような合成語が多いところだと思います。Hurra(hurrah, hooray, cheers)-ropene(shout,cry)は英語だとcheering(歓声)なのに、Hurraとropeneを分けて訳してしまうと、くどい日本語になってしまいます。一語で表せるものは、そのように訳すよう気をつけなくてはなりません。
: to ganger sin egen lengdeは「落下距離は、その子の背の倍はあった。」としてしまいましたが、日本語版では自分二箇分ほど(下へずり落ちた)となっていて、文章を分ける必要がなかったことも分かりました。
また一人の方がこれをファンタジー、子どもの本のようだとおっしゃっていて、私は平出さんが大人の本の作家であることから、いや、大人の本では、と否定してしまったのですが、後からよく日本語の文章を読み返して、そのようにとらえることもできるし、それはとてもおもしろい解釈だと気付かされました。そうやってこれは大人の本だ、子どもの本だと分け、決めつけ、他人の解釈を否定してしまった自分の浅はかさを深く反省させられました。文学というのは色々な解釈があるから面白いのですよね。北欧では議論する時にEfter min mening(私の意見では)という言葉をよく使うようですが、私にはその言葉が欠けていたのでした。
またずり落ちたというところは、ノルウェーでもただ落ちるのではなくskledという言葉を使うことで、先生はずり落ちるというニュアンスをしっかりと出していました。私はただ落ちると訳してしまっていました。反省。
日本語で屑物入れと言うのとゴミ箱と言うのと、ゴミバケツと言うのと、くずかごと言うのとでニュアンスが異なるように思えます。søppeldunkenというノルウェー語と屑物入れという日本語はぴたりとは一致しないように思えます。屑物入れと言われると、私は家の中の小型のごみ箱を思い浮かべますし、明治時代など昔の文学に出て来そうなレトロな表現に思えます。でもこれは文化、生活環境が違うので仕方の無いことですし、先生はゴミ箱とのニュアンスの違いはご存知の上で、そのように訳したのでしょう。
先生は日本語のテキストのニュアンスを驚くほど上手につかんで訳していいるように思えました。ご自身の日本語力が高いこともありますが、日本人の方や日本で育った別の翻訳者さんとも翻訳や日本語についてよく話をするそうで、それはとても素晴らしい方法に思いました。
先生は日本語、日本の文化、文学の異質さ、つかみにくさを楽しんでおられて、そこが素敵だと思いました。私達の誤りも笑って受け止めてくださいました(もちろん出版されるとなれば、笑ってはいられないのですが)。その笑顔にどんなに励まされたことか・・・・・・!
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反省点がたくさんあって、もっともっと勉強しなくてはならないと思いました。
今まで英語の翻訳者さんが描いた本を読んで勉強してきたのですが、日本の作品のノルウェー語版を使って勉強するのも手だと思い、早速『センセイの鞄』のノルウェー語版を購入しました。これから少しずつ勉強していきたいです。
ノルウェーではもちろんケースバイケースでしょうが、編集者さんがノルウェー語の訳文を読んで日本語原文を想像して変えてしまうということはあまりせずに、日本語が読めないので原文は分かりえないという考えから、出版社が他の日→ノル翻訳者にお金を払って、訳文のチェックを依頼したりするというお話を聞いたことがありました。でもそれは日本ではなかなか聞かないケースです。ノルウェーは世界で最も翻訳者の自由が守られている国のひとつなのかもしれません。翻訳者の自由、決定権が守られているからこそ、原文であいまいに書かれたところをあいまいなままに残すことができるのかもしれません。
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私は本を読むのが大好きなので、勉強会の後の懇親会で先生と日本文学の話をしたくてたまりませんでした。ノルウェー語に訳されている川上未映子さんや金原ひとみさんの作品は大好きですし、伊藤比呂美さんなども『今日』の翻訳などで素晴らしい文章を描く方だということは存じていました。
でも先生の口から平出隆さんというお名前が出てくるのを聞いた私は、目を白黒させるしかありませんでした。不勉強で恥ずかしいのですが、『胡蝶の戦意のために』のタイトルは聞いたことがあっても、読んだことはなかったからです。amazonでこの本を買おうと思って調べてみましたが、残念ながら絶版していましたし、私の暮らす町の図書館にこの作品は置いていませんでした。日本での評価にとらわれず、そういう作家さんの素晴らしさを見ぬき、作品の味わいをそのままノルウェー語に再現している先生のような訳者に、私もなりたいです。
平出さんについてのノルウェー語の記事
https://www.nrk.no/kultur/bok/seks-internasjonale-debutanter-med-romaner-pa-norsk-1.12804336
https://www.nrk.no/kultur/bok/japanerne-kommer_-1.10919914
https://yondayonda.wordpress.com/?s=hiraide
他の日本の作家さんにも、海外で評価されるポテンシャルを持った方がいるかもしれません。村上春樹さんが、自ら海外進出を試みたように、海外を目指す作家さんがこれからさらに増えていけば面白い、と思いました。
私が最近訳した『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』のイルセ・サンさんも自費出版で出した作品を、自ら海外へ紹介していったとてつもないバイタリティに溢れる作者です(宣伝ばかりで、すみません)。
懇親会では、他の参加者の方達から辞書のお話や、北欧の児童演劇のお話などをうかがうことができ、とても楽しい時間を過ごすことができました。またノルウェー語からの直接訳の出版が決まった方もいるようで、とても嬉しい気持ちになりました。こんな風に皆でわいわい楽しくお話したりして、協力しながら活動できたらどんなにいいかと思いました。皆さん私より年上で先生と呼ばれる方達ばかりで、私も混ぜてもらっていいのか、初め気後れしていましたが、本当に気取らず気さくに話してくださって夢の中にいるような気分になりました。ありがとうございました。北欧語の翻訳に取り組んでいる他の方達とも一緒に勉強できる機会が今後あればとても嬉しいです。