書影
『手で笑おう 手話通訳士になりたい』アン・マリー・リンストローム作、汐文社、2012年
作家紹介
アン・マリー・リンストローム(Anne-Marie Lindström)
1933年、耳の聞こえない両親のもとに生まれ、マルメにあったろう者向けの集合住宅で育つ。高校卒業後、スウェーデンろう連盟に勤務。1968年、手話辞典『ろう者のための手話』(Teckenspråk för döva)を編纂。スウェーデン初の手話通訳士養成講座の開講に尽力するなど、手話通訳士制度の発展に寄与した。1980年代後半には、新聞のコラムニストとしても活躍。1987年、『お母さんと私』(Mor och jag)で作家デビュー。IBBY(国際児童図書評議会)障害児図書資料センターの推薦図書に選ばれた。2009年に亡くなった。
あらすじ
耳の聞こえない両親のもとに生まれ、ろうの人と健聴者とを手話でつなぐアン。スウェーデンの手話の発展に尽くした女性の実話。
あとがき
1933年にスウェーデンで生まれたアン・マリー・リンストロームさんは、耳の聞こえない両親と健聴者の弟とともに、ろうの人向けの集合住宅『ろうの家』で暮らしていました。
その家の大人は読み書きが苦手な人が多く、耳の聞こえたアンさんに領収書や手紙や新聞を読むのを手伝うようしょっちゅう頼んできました。ろうの人達は話し言葉を聞くことのないまま、書き言葉を覚えます。そのため文章のつなげ方や助詞の活用、語順、状況に応じた言葉の使い分けに苦労しがちなのです。スウェーデンのろう教育は1809年にすでに始まっていましたが、教育制度や教授法は当時それほど整っていませんでした。そのためろう学校に行ってもしっかりとした教養を身に付けられず、結果賃金の高い仕事に就けず、貧困に悩まされる人も多かったそうです。耳が聞こえたアンさんは、ろうであることに自信が持てなかった大人達にすごい、すごいと持てはやされて育ちました。
ところが小学校三年生の時、ポリオで自由に歩けなくなり、初めて人から助けられる立場になりました。長い入院生活と自宅療養を経て中学校に進学しますが、手話の世界で育ったアンさんは話し言葉や書き言葉が苦手で、授業についていけません。そこで中学校を中退し、通信制の中学校で卒業資格をとることにしました。辛い日々の中でアンさんは、自分にとって手話とは一体何なのか真剣に見つめなおしました。
中学卒業後は、日中に仕事をしながら、夜間高校に通いました。そしてろうと健聴者をつなぐかけ橋になりたいと夢みるようになります。
夜間高校を卒業後、スウェーデンろう連盟で働きはじめました。そこで手話通訳士の教科書や手話辞典を手さぐりでつくりました。また1969年に手話で授業をする国民高等学校をろう連盟がスウェーデンで初めて開きました 。
同じ1969年、手話通訳士の養成講座の開講準備にも携わり、ご自身も参加され、後にご自身も通訳士として活躍されます。当時スウェーデンにもプロの手話通訳士はほとんどいませんでした。手話法も全くと言っていいほど確立されていませんでした。
それから40年以上経った現在のスウェーデンでは、ろうに一番近い存在の人が職場で就業時間内に無料で手話を学ぶ権利が保障されていたり、大学などに手話通訳養成コースが設置されていたりと、手話の学習環境が整っています。また県が各教育機関に手話通訳士を派遣。手話通訳士に生活していくのに十分な給与を支払います。アンさんをはじめとするろう連盟の方々が手話通訳士制度の礎をつくったことが、これらが実現した大きな一因となっています。
逆境にもめげず、見事に夢をかなえたアンさん。本書の日本での出版が、日本のろうの人達を取り巻く環境の改善と社会的地位の向上につながれば、こんなに嬉しいことはありません。
最後に手話やろう者を取り巻く環境について、質問に答えてくださった手話研修センターの小出新一様にこの場を借りて御礼申し上げます。
書評など
- 第46回岩手読書感想文コンクールの課題図書に選ばれました。
- 岡山県学校図書館協議会 平成25年度 第59回岡山県読書感想文コンクール指定図書に選ばれました。
- 第46回YBC(山形放送)読書感想文・体験文指定図書に選ばれました。